「写真は撮りたいものがわかれば、あとは身を捧げるだけ」
日本の写真専門学校ではなく、スペインを選んだ理由はあったのだろうか?
「
他人と同じことをやっても成功しないと思った。実際、父親を説得して、会社を辞めることも大変だったし、やるなら
生きるか死ぬかぐらいの意気込みでしたね。とにかく生温い環境は嫌だったんです。最初は言葉も喋れませんでしたが、行けばなんとかなるかなって。現地では、アルバイトをしながら生活していました」
バルセロナにはスペイン人のほか、中南米から出稼ぎで来た労働者が多く住んでいた。彼らはお金を持っていなかったが、楽しむ術を持っていた。同年代の友人でも身ひとつで働きに来ていた彼らが大人びて見えた。こうして、次第に中南米への想いが募っていく。
「自分も覚悟を持ってカメラをやっていたから、それに値する人が撮りたかった」
その後、中南米を旅してまわるようになった伊藤氏。
「各地を転々としながら撮る写真の良さもあるが、“一見さん”として振る舞うことが面倒になったということもある。旅先では毎回、ジャッキー・チェンのモノマネをさせられるからね(笑)。極論を言えば、写真はシャッターを押せばだれにでも撮れる。あとは、
自分がどういうものを写すのか、自分が撮りたいものがわかれば、身を捧げるだけなんです。それがリオのファベーラだったということ」
ブラジル人の友人を頼り、ファベーラに住むことを決意する。そこで段階を踏みながら関係を築いていった。とはいえ、日本の私たちからすれば、「スラムは危険」というイメージがある。報道でもネガティブなものが多いだろう。実際、伊藤氏はどのように感じたのか。
当初は、ファベーラに鳴り響く銃声やバズーカの閃光などに身をすくめたというが、それは年に数回。伊藤氏は、「普段は穏やかな生活が大半だった」という。だが、そこに暮らす人々を撮ろうとしたが、
撮りたくても撮れないジレンマもあった。
「生活には慣れたけど、ファベーラって、やっぱり写真はタブーなんですよね。ギャングの奴らが武装して装甲車に乗っていたり、銃撃戦に出くわしたりもしたけど、写真に収められるわけじゃない。広く浅くじゃなくて、狭く深い写真が撮りたい。
それで、住んだら良い写真が撮れると思ってせっかく言葉も覚えたのに……撮れねえなって、八方ふさがりになることもあって。半年ぐらいなにもしなくて、海辺をジョギングしてハンモックで寝るだけみたいな時期もあった。
お金を稼ぐために、現地コーディネーターをやったり、宿のオヤジもやっていた(ゲストハウスも経営していた)けど、やっぱり、カメラがやりたいなって」
そんなとき、「ブラジルを離れることも勇気」だと思い、これまでの旅を振り返って心を動かされたメキシコの娼婦、キューバのボクサーを撮りに出掛けた。
普段は陽の当たることのない人たちに強い生命力を感じたのだ。ただ、“撮っただけ”ではない。
「いまの時代はどの場所の写真だって簡単に見れるから。そこに行って撮るだけでは意味がないと思っている。ギャングだって、写っているだけでは面白くない。やっぱり、光の入り方だったり、構図だったり、フォトジェニックじゃないと強い画として残らない。テクニカルな部分とドキュメンタリー性をどのようにブレンドするか。そのサジ加減がオリジナリティなんだよね」
明治大学商学部卒業後、金融機関を経て、渋谷系ファッション雑誌『men’s egg』編集部員に。その後はフリーランスとして様々な雑誌や書籍・ムック・Webメディアで経験を積み、現在は紙・Webを問わない“二刀流”の編集記者。若者カルチャーから社会問題、芸能人などのエンタメ系まで幅広く取材する。X(旧Twitter):
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『ROMÂNTICO』
「クレイジージャーニー」出演で大反響。 リオのファベーラに10年住み、そこに暮らす人々のリアルな日常を切り取る写真家・伊藤大輔初作品集。ブックデザインはMATCH and Companyの町口景が手がける。
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