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第549回 12月12日「PCエンジンの時代 その2 (1988)」

・1988年。ファミコンは発売後5年を経過してなお売れ続けていた。スーパーファミコンはまだまだ出そうもない。ユーザー側からしたら、ゲームセンターにあるような、デカキャラがヌルヌル動き画面がぐるぐる回るゲームが家で思う存分遊べたら……と妄想しつつも、実際はファミコンでもまだ十分に楽しめていた状況だった。ドラクエだってマリオだって次回作がまだファミコンで出ることが確約されていたのである。 ・そういう時代にPCエンジンを買ってもらえたのはお金持ちの子だった。マニアというわけではなく、お金持ち。マニアはゲーセンに通いつめたり、家庭用ゲーム機でもセガ製品に忠誠を誓っていたのである。 ・その周囲に、ゲーセンに行くほどじゃないけどゲーム好きで、新しいゲームに興味しんしんというマーケットも生まれていた。今でいうと、ほとんどゲーム買わないけどゲーム実況が大好き、っていう人たちだ。 ・少しだけ自分の話をする。僕は1985年にファミコンの攻略ビデオの企画制作に関わり、その流れで高橋名人主演のファミコン映画の構成を担当したりしていた。その後は、企画書を持ってテレビ局を回っていた。当時、巨大なマーケットになっていたにもかかわらずゲームを紹介するメディアは専門誌しかなかった。5000円以上する商品を、ユーザーは画面写真と文章の情報だけで選んで購入していたのだ。 ・一般層に向けて動画でゲーム情報を提供したい、というのが僕が考えていたことだ。もちろんネットもない時代だった。最新のゲームを紹介するテレビ番組を作りたかったのだ。ところがテレビ局はどこもけんもほろろだった。「ゲーム? へっ。子供の遊びだろ? 」 ・「ゲームだってテレビ使うだろ。テレビ局にとっちゃ商売ガタキなんだよ」そんなことも言われた。とあるテレビ局には「TVゲームをフィーチャーした番組は3ヶ月に1回以内」という規定があり、つまり毎週のレギュラーなんてそもそも無理だった。しかしながら馬鹿にしながら、敵視しながら、各局、ゲームのCMはしっかり流しまくっていた。もらえるものはもらっておこうというわけである。 ・結局テレビをあきらめて、ビデオメディアを使って同様の企画を実現した。最新ゲームの動画、攻略動画をビデオソフト化して、月刊で、つまり雑誌形式でリリースしたのである。これが結構売れた。毎月の作業はなかなか忙しかった。 ・そんな頃、ハドソン社から呼び出された。同社とは攻略ビデオや映画以来のつきあいがあり、PCエンジン本体のメインチップの開発に関わられていた状況も拝見していた。もちろんPCエンジンのゲームも、ビデオマガジンで毎月、紹介させてもらっていた。 ・ハドソンの役員に連れられてPCエンジンの発売元であるNEC-HE社に行った。そこで、PCエンジンのCD-ROMドライブをリリースするプロジェクトについてのレクチャーを受けた。もちろん僕はかなり興奮した。ゲームソフトの容量がいきなり数千倍になる瞬間に立ち会うことができるわけである。 ・そこではさらに「コア構想」というものについて詳しく教えてもらった。ゲーム機として普及させたプラットフォームに後付けでいろいろなものを接続して拡張していく。映像。音響。そして様々な情報アーカイブを、ゲームのコントローラーで享受していく、そんなシステムだ。 ・人がパーソナルなコンピュータ環境によって動画や音響を自由自在にコントロールする時代が、未来像として語られ初めていた時代だった。「マルチメディア」という言葉が使われた。それが、PC環境からではなく、ゲームからスタートすることになると僕は確信した。 ・今後のPCエンジンはゲームマニア層をしっかりと押さえつつ、一般向けにも訴求していきたい。そこで、テレビ番組を始めたいので、協力してほしいという話だった。PCエンジンのシステムホルダーのNECが提供するから、PCエンジンタイトルはすべて紹介できる、と。 ・テレビ東京の夕方枠で『PCランド』が始まることになった。ただしその第一回の収録現場で大変なことが起きたのだ。つづく。 作家。小説のほかマンガ、アニメ、ゲームの原作を手がける。著作に『アンドロメディア』『プラトニックチェーン』『iKILL(ィキル)』等。ゲーム制作会社GTV代表取締役。早稲田大学講師。
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