南三陸町 【防災対策庁舎】の存在意義 悲劇の舞台だからこそ保存を
―[震災モニュメントを残せ!]―
日々変わる被災地の風景。少しずつだが復興が進む一方で、このまますべてを消し去るべきでないとの声も上がっている。「惨劇を後世に伝えるモニュメントにしたい」――そう訴える側や被災地の住民たちはどんな心境なのか。関係者、そして現地の人々の声を追った。
宮城県南三陸町 【防災対策庁舎】
◆ 悲劇の舞台だからこそ教訓としての保存を
「もしかしたら自分も犠牲になっていたかもしれない。津波が押し寄せる直前まで、何十人の仲間と共にこの場所にいたんです」
鉄骨がむき出しになった防災対策庁舎を見上げる元職員の男性は、そう述懐する。津波の到達直前に住民を高台に避難させ、そこから振り返ると既に庁舎は波にのみ込まれていたという。
「大災害を“風化させない”という意味では庁舎は残すべき。でも遺族の気持ちを思うと複雑で……」
人口1万7000人超、宮城県の北東部に位置する南三陸町。標高300~500mの山に囲まれ、沿岸部はリアス式海岸特有の豊かな景観が広がる。中心部である志津川地区には、役場をはじめ総合病院や防災対策庁舎があった。死者・行方不明者数は1100人以上。町の中心部には、骨組みだけになった3階建て庁舎が残る。命を危険に晒しながら、避難アナウンスを続けた職員・遠藤未希さんらが犠牲になった話でも注目を集めた場所だ。「逃げて」と叫び続けた遠藤さんは、その声で多くの地元住民を救いながらも、自らは遺体で発見された。
同町の佐藤仁町長(59歳)は、「個人的な思いだが、この災害を忘れないためにも庁舎をモニュメントとして残したい」と、この建物を保存する意向を示している。南三陸町周辺の住民に話を聞いた。
「用心していた地域にもかかわらず、これほどの被害が出てしまった。だからこそ残して教訓にしてもらいたいんです」(40代男性)
「何か一つくらいはそのまま残すことで、この大震災を忘れないでほしい。この高さの建物(3階建て)でも結局ダメだったんだから……。これをきっかけに、繰り返さないための対策を練ってほしい」(50代男性)
「見るたびに思い出すのもツラい。残すのが良いのか悪いのか、気持ちは半々ですね。ウチの兄も当時、庁舎の中で勤務していてね。まだ見つかっていないんだよ……。だから、今その判断を迫られるのは酷かな」(40代男性)
「みんなこれだけ怖い思いをしても、やっぱり自分の町だから『また住みたい』って思うのよ。だからそのときのためにも残ってほしいかな」(60代主婦)
この災害から学ぶ――。それぞれ胸に抱える思いはあれど、住民からは賛同する声が多く聞かれた。
後世への教訓、そして慰霊の地として……
保存を提唱する佐藤町長はどのような考えなのか。佐藤町長は、
「モニュメントとして残すことで、この町を繋いでいく子供たちが、どんな災害にあっても犠牲を出さないという強い思いを持ってもらいたい」と語る。
「ご遺族の方にしてみれば『もう見たくない』『(見ることで)思い出してツラい』ということもあると思います。だが、慰霊碑や献花台を設け、お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りする場所にしたい……。それと同時に、将来この町を担っていく人々に大切な教訓としてメッセージを送っていく必要があるのです」
また、佐藤町長は被災地以外に住む者にも共通のメッセージを発したいと強く望んでいる。
「保存することで、県内外問わず全国の人々が何かを感じ取れる場所になってほしい。賛否両論ありますが、モニュメント化の実現に向けて各方面へ提案を行っている段階です。もし保存が決定したならば、一日に一回は必ず部下や仲間、犠牲になった多くの方々に向けて手を合わせたいと思います」
現地にはすでに、町長の思いを象徴するような人も訪れていた。仙台市から来たという一家だ。
「(庁舎は)津波の教訓として、振り返る場所にしてほしい。子供たちにもTV画面を通してではなく、実際に現場に来ることで何か感じるものがあると思って来ました。考える場所として残してほしいと思います」(40代主婦)
母親の傍らで小学校低学年ほどの子供たちが無言で庁舎を見つめていた。2階部分には今でも木やガレキが絡まり、被害の残酷さを物語っている。庁舎をじっと見つめたまま動かない子供たちの目には、その姿がどう映ったのか……。
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