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ネットカフェ難民からゲストハウス生活へ…日雇い男の若き日の夢

インカムを通して行われた喧嘩

野菜スティック 僕はあるテーブルに料理を運んだ。 「お待たせいたしました。こちらスティックサラダです。塩麹マヨネーズをディップしてお召し上がりください」  その数分後、インカムが音声を受信した。 「ザザザザ……」 「ズズ……ザザジジジ……」  激しい口調でなにか言っているようなのだが、さっぱり聞き取れない。もしかしたら僕への指示かもしれないので、イヤホンを耳の穴にぎゅっと押し当てて音声に集中した。どうやら話しているのは店長と河野君の2人。さっきのテーブルにビールよりも先に僕に料理を運ばせたことについて揉めているようだった。 「おまえ、お客さんの気持ちぜんぜんわかってないな。お客さんはテーブルに着いたらまずはビールで乾杯したいものなんだよ」 「でも、先にできていた料理を先に運ぶくらい別に問題ないじゃないですか」 「黙れ。店長は俺だ。おまえは俺の指示に従え」 「店長がそういう言い方しかできないのなら、僕はもうやってられないです」 「じゃあ、帰れ。うちの店にはおまえみたいな奴はいらねえんだよ」  店長のその言葉で河野君は本当に帰ってしまった。空いたデシャップのポジションには急遽、ホールからひとり入った。そしてホールがひとり減った状態でもっとも忙しくなるディナータイムへと突入してしまったのである。  チーン。キッチンカウンターのベルが鳴らされ、僕は料理を取りに行く。 「これ35番です」  新しくデシャップに入った青年はテーブル番号だけ言って僕に料理を渡す。河野君のように料理を提供するときに言う言葉までは教えてくれなかった。僕はその料理を35番テーブルに運んで客に言う。 「お待たせいたしました。こちら煮込みちゃんぽんうどんです。お好みで……」  なんだっけ? 河野君から教えられた言葉が出てこなかった。 「お召し上がりください!」  僕はそれだけ言い、逃げるようにしてそのテーブルから離れた。客の帰ったテーブルをバッシングしていると、またベルが鳴らされた。僕は食器を乗せたトレンチをもってキッチンカウンターに急ぐ。その途中、客に呼び止められた。 「すみませーん。注文いいですか」 「はい、少々お待ちください」  インカムで他のスタッフに頼んだ。チン、チーン。急かすようにまたベルが鳴らされた。僕は料理を受け取ってテーブルに運ぶ。そしてその間にも発生しているバッシングしなくてはならないテーブル。チーン。鳴らされるベル。すみませーん。呼んでくる客。全力でホールを動きまわって捌いていってもそれ以上の速度で仕事が増えていき、息つく暇すら与えられなかった。  やがて時間の感覚はなくなっていき、気付くと営業は終了していた。更衣室で私服に着替えてタイムシートに店長のサインをもらった。 「今日はありがとうな。よかったらまた働きに来てよ」  店長はそう言って栄養ドリンクを一本くれた。

あの頃、夢は叶うと信じていた

 店を出て最寄り駅に向かって歩いた。その途中にあった公園のベンチに腰を下ろした。栄養ドリンクをゴクリと飲んでふうッと大きく息を吐く。体は綿のように疲れており、しばらく動く気になれなかった。  ネットカフェからゲストハウスに移り、寝床だけはかなりまともになった。が、日雇い派遣をしなければならない生活は相変わらずだった。夜空を見上げ、香港で過ごした日々のことをまた思い返した。
重慶大厦

重慶大厦(チョンキンマンション)の入り口

 僕は武と香港随一の繁華街である尖沙咀の夜の通りを歩いていた。そこに誘蛾灯のように一際眩い光を入り口から放っている雑居ビルがあった。その入り口上部には黒地に金色の文字で「重慶大厦」と書かれている。僕はその前で足を止めて武に言った。 「おい、見ろよ。ここが映画『恋する惑星』の舞台になったチョンキンマンションだ」 「ふーん」 「ここを拠点にして金髪女はインド人を使って麻薬密売をしていたんだ。興奮してくるだろ?」 「いや、別に……。ウォン・カーウァイ監督が好きなのか?」 「彼はけっこう良い作品を作るよね。でも、脚本がちょっと甘いね。僕のほうがもっと良い脚本を書けるよ」  若さゆえの過剰な自信。あの頃、夢は叶うと当たり前のように信じていた。今頃は華やかなスポットライトを浴びながら生きているはずだった。それなのに……。  ベンチにもたれて顔を真上に向けると、そこにひとつの光があった。が、それは夜の公園を照らすただの外灯に過ぎなかった。そこに一匹の蛾が鱗粉を撒き散らしながら何度も体当たりを繰り返していた。<文/小林ていじ>
バイオレンスものや歴史ものの小説を書いてます。詳しくはTwitterのアカウント@kobayashiteijiで。趣味でYouTuberもやってます。YouTubeチャンネル「ていじの世界散歩」。100均グッズ研究家。
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