更新日:2021年04月08日 14:33
エンタメ

22年間の番組が明日終了。『とくダネ!』小倉智昭の隣にいた男

鹿児島放送を入社3年で退職

 鹿児島放送初となる県外出身の男性アナウンサーとして、入社2年目ですでに日曜昼のレギュラー番組『日曜ゆーえんち』の司会に抜擢された。キー局であるTBSの『アッコにおまかせ』を向こうに回して、視聴率10%台も記録する人気番組の司会を務め上げた。しかし、順風満帆に見えたが、大村は入社3年目で退職を決意する。 「ニュースを読むときに、先輩デスクが書いた原稿を勝手に言い回しを変えて怒られたり、短期間で二度もニュースの順番を間違えて始末書を書きました。上司との折り合いも悪く、“もうダメだな”って退職を決意したんです」  何の当てもなかった。ただ漠然と、一般旅行業務取扱主任者試験を受けて、元々憧れを抱いていた旅行業界に転職する心積もりだった。そもそも、アナウンサーに憧れなどなかったか、何の未練もなかった。そんな折、またしても師・稲増から「フジテレビの『おはよう!ナイスデイ』でリポーターを募集しているから、受けてみたらどうだ」と連絡が入った。 「このときも稲増先生からの情報でした(笑)。ワイドショーのリポーターになるつもりはなかったんですけど、ひとまず応募することにしました。ちょうど、ワイドショーについて、ひと言もの申したいこともあったので……」

「埼玉愛犬家連続殺人事件」「つくば母子殺人事件」を経て……

 話は前年にさかのぼる。92年4月25日、ロック歌手の尾崎豊が逝った。大の尾崎ファンだった大村は、その死を伝えるワイドショーを丹念に視聴した。しかし、そのいずれも、大ファンとしてはまったく納得できる内容ではなかった。 「結局、何も尾崎のことを知らない人たちが、尾崎のことを斬ってるんです。昔、覚醒剤で捕まった人、破滅に向かって自ら進んだ人……、そんな描き方ばかりで、どうして尾崎の歌が若者の心に刺さるのか、その本質に触れる報道はまったくなかったんです。“尾崎の魅力は?”と尋ねると、ファンは“すべて”と答えて終わり。いやいや、その“すべて”をもっと掘り下げなくちゃダメでしょ。そんな思いを面接では訴えました」  こうして、1000人以上の応募者の中から『おはよう!ナイスデイ』の専属リポーターに合格する。大御所の東海林のり子、ベテランの武藤まき子、奥山英志らとともに、事件現場を渡り歩く日々が始まることになった。  当時の『おはよう!ナイスデイ』には総勢13名のリポーターが在籍していた。10時の生放送が終わると、先輩リポーターたちは次から次へと、きんさんぎんさんの下に駆けつけたり、統一教会の動向を探るべく現場に飛んでいく。新人・大村の出番はなかなかやってこなかった。 「当時、完全歩合制で、一回出演して2万円のギャラでした。でも、月にせいぜい3本程度しか仕事がないから、全然食っていけないんです」  しかし、大村に転機が訪れる。94年の年明けから、マスコミをにぎわせた「埼玉愛犬家連続殺人事件」が、彼にとっての「出世事件」となったのだ。 「あの頃は愛犬家連続殺人事件にどっぷりハマっていました。後に終身刑となる関根元と、その元妻である風間博子に入り込みました。さらに、つくば母子殺人の取材を必死に続けていたら、次第に“こいつは意外と頑張るな”って、少しずつ評価が上がっていたようです」  こうして、「ベテランはスタジオ出演、大村は現場中継」という役割分担が定着していく。大村の伝えるリポートには熱気があった。若いディレクターたちもそれに呼応して、寝食を惜しむことなく働き続けた。一緒に番組を作り上げていく充実感があった。リポーターという職業にやりがいが芽生え始めていた。気がつけば、「ニュースを読むのが下手なアナウンサー」だった大村は「情熱あふれるリポーター」へと変貌を遂げる。そして、1995年1月17日、日本中を悲劇に包んだ災害が起こる。  阪神淡路大震災――。多くの被害者を出した未曽有の大震災は、「リポーター・大村正樹」にとって、一生忘れられない大仕事となるのだった――。 (第2回に続く) 取材・文/長谷川晶一(ノンフィクションライター)撮影/渡辺秀之
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
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