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「絶対にアメリカに行ったほうがいい」岡島秀樹がメジャー行きを意識した“新庄剛志の言葉”

―[サムライの言球]―
 もともとメジャーリーグには何も興味がなく、ジャイアンツひと筋で現役生活を終えるつもりだった。しかし、プロ13年目の開幕直前に決まった北海道日本ハムファイターズへの電撃トレードが岡島秀樹の人生を変えた。  そして、’07年から、彼はメジャーリーガーとなった。「ボストンがどこにあるのかも知らなかった」と語る岡島は、1年目から中継ぎ陣の中心として活躍。ワールドチャンピオンに輝き、チャンピオンリングも手に入れた。  ふとしたきっかけから運命が激変し、「野球人生の最後はアメリカで迎えたい」と考えるまでになった彼のアメリカでの日々を振り返りたい――。

FAの権利を捨ててでも残りたいチームから移籍を告げられた

サムライの言球 1993年秋、読売ジャイアンツからドラフト3位で指名された。桑田真澄、槙原寛己、そして斎藤雅樹の3本柱を擁する豪華投手陣の中で岡島のプロ野球人生は始まった。プロ6年目となる1999年に中継ぎに転向すると、めきめきと頭角を現し、貴重な左腕としてチームに欠かせない存在となる。  しかし、’06年の開幕直前、岡島は北海道日本ハムファイターズへのトレードを命じられた。青天の霹靂だった。 「あと数か月でFAの権利を取得できる時期でしたけど、チームには愛着がありましたからジャイアンツに残るつもりでした。なのに、FAの権利を捨ててでも残りたいチームから移籍を告げられた。それはやっぱりショックでした」

トレイ・ヒルマン監督、新庄剛志氏との出会い

 しかし、ファイターズでの出会いが岡島を変えた。きっかけをもたらしてくれたのはトレイ・ヒルマン監督と、この年限りでの引退を事前に表明していた新庄剛志だった。 「ヒルマン監督はいつも、『家族は元気か?』とあいさつしてくれました。東京に残してきた僕の家族のことを気にかけてくれていたんです」  コンディションについて尋ねられたことは一度もなかった。いつも家族のことばかり尋ねられるのが不思議だった。 「それで通訳さんに聞いたら、『それがアメリカンスタイルだ』と言われました。このとき初めて、アメリカっていいな、って思ったんです」  一方の新庄は、「岡島のフォームは個性が強いから、絶対にアメリカで通用するよ」と熱心に語り続けたという。リリースの瞬間に顔を下に向け、ホームベース方向を見ずに投げる独特の投球フォームを新庄は絶賛したのだ。 「新庄さんからは、『この投げ方なら、必ず通用するから、絶対にアメリカに行ったほうがいい。すぐに行け!』って何度も言われました(笑)」
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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