更新日:2021年04月08日 14:33
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22年間の番組が明日終了。『とくダネ!』小倉智昭の隣にいた男

大村正樹1

小倉さんは22年間、まったく変わっていない

 日本の朝の光景が変わろうとしている――。明日、2021(令和3)年3月26日をもって、22年間続いた『情報プレゼンター とくダネ!』が大団円を迎える。1999(平成11)年4月の番組開始当初から総合司会を務めてきた小倉智昭が、明日を限りに「朝の顔」から勇退する。そして、この日を特別な思いとともに迎える男がいる。 大村正樹――。  名前を聞いて、すぐに顔が浮かぶ人はかなりのテレビ通だろう。しかし、本人の顔を見ればすぐに「あっ、あの人か!」と思うはずだ。かつて、12年にわたって情報リポーターとして小倉を支えてきた大村は言う。 「22年も経ったけど、僕の中では小倉さんはまったく変わってないんです。常に男としての色気を持っているし、努力家だし、新しいものを見たいという貪欲な気持ちは何も変わっていない。それに貧乏性だけど、決してケチじゃない。いつまで経っても、いい兄貴分のような存在なんです」  大村は小倉を食事に誘ったという。 「ご馳走になる気満々で、しかし良い話も聞いたし会計が安かったので俺が払います!と言って、小倉さんは大村にご馳走になる日が来るとはな~としぶしぶ受け入れてくれました。小倉さんにはいつまでもギラついていてほしいという思いで、2人で楽しくお酒を呑みました。帰るときには『春からタクシーばかりじゃダメだからな。電車も乗るんだよ」とSuicaを見せられ中央線に乗りました。  楽しそうに、大村は笑う。さて、この大村正樹という男。実は波乱万丈なリポーター人生を送ってきたことを知る者は少ない。ヤフー検索で「大村正樹」と入力すると、「無神経」「失言」「嫌い」と続く。どうして、こんなに否定的な言葉が続くのか?  1995年の阪神淡路大震災では不眠不休で現場リポートを続けたこともある。同年のオウム事件では上九一色村の最前線で命の危険にさらされたこともあった。その一方で、2011年のニュージーランド地震によって右足切断を余儀なくされた少年に対し、「これまでのようにスポーツできなくなってどんな気持ちですか?」と質問して大バッシングを受けた。2016年、女優・高畑淳子に対して、性的暴行を加えた息子について「息子さんの性癖を知っていたのか?」と尋ねて、炎上騒動を起こしたこともある。  大村正樹とは、どんな人物なのか? そのリポーター人生をひも解いてみたい――。

32社目にして、ようやくアナウンサーに合格

大村正樹2  1967(昭和42)年4月26日生まれ。来月で54歳になる。フジテレビの局アナだと勘違いしている人もいるかもしれないが、彼はフリーランスアナウンサーである。富山で生まれたものの、銀行員だった父親の転勤に伴って引っ越しを繰り返す幼少期を過ごした。法政第一高校(現・法政高校)から法政大学に進学し、社会心理学、メディア文化論専門でマスコミでも活躍する稲増龍夫ゼミの出身だ。 「稲増ゼミの出身でもあるんですけど、ちょうど僕の在学中に先生と若い大学スタッフが自主的に立ち上げた法政大学自主マスコミ講座の一期生でもあるんです。僕自身は旅行代理店に行きたかったんですけど、先生から「稲増ゼミのゼミ長なんだからマスコミ受けなきゃ!君はアナウンサーになれる!!」とおだてられて、マスコミばかり受けたんです」  自主マスコミ講座のアナウンサーコースに所属していた大村は、師の勧めに従ってテレビ局を受け続けた。決してアナウンサー職に憧れがあったわけではない。それでも、ひたすらエントリーシートを提出した。連戦連敗の果て、32社目にして内定を手にしたのが縁もゆかりもない鹿児島放送だった。 「当時、稲増ゼミからマスコミに進んだ人っていなかったのでは?あの頃は先生に言われたことは絶対だったし、先生からの期待も大きかったんで、ずっとアナウンサー職を受け続けました。でも、アナウンサーに対する憧れも理想も、何もなかったんです」
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鹿児島放送を入社3年で退職
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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