更新日:2021年04月02日 09:47
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「お前のリポートには心がこもっていない」大村正樹の仕事観を変えた大震災

3月26日、22年間お茶の間の朝を彩ってきた『とくダネ!』(フジテレビ系)が終了した。芸能リポーターとして、ときに事件、事故の現場に向かい、人々の喜怒哀楽を伝え、時代の節目に立ち会ってきた者たちが新たなステージを迎えようとしている。芸能リポーターという仕事とは何だったのか? 令和のいま、当事者たちの証言をもとに紐解いていく――。

<大村正樹・第2回>

大村正樹1 転機となった1995年1月17日――。  旅行業界への憧れを抱いたまま、師の勧めに従い放送業界へ足を踏み入れた。32社目の就職活動の末に、ようやく手にした鹿児島放送のアナウンサー職も、わずか3年で自ら放棄した。気がつけば、フジテレビ『おはよう!ナイスデイ』のリポーターとなっていた。しかし、その仕事は、自分の人生をかけるに値するものなのか、確信を持てぬ日々が続いていた――。  1990年代初頭、当時20代半ばを迎えていた大村正樹の人生は、いまだ定まっていなかった。しかし、リポーターとなって少しずつ仕事を覚え始めていた頃、「一生忘れられない大仕事」となる出来事が起こった。  1995(平成7)年1月17日、午前5時46分52秒――。兵庫県・淡路島北部沖の明石海峡を震源とする大地震が発生した。後に「阪神・淡路大震災」と称される未曽有の大災害だった。このときの一連の災害リポートが、大村の人生を決定づけることとなった。

「埼玉愛犬家連続殺人事件」の関根元を取材していた

「あの日、僕はスタジオ出演の予定がなかったので、早朝から『埼玉愛犬家連続殺人事件』で、すでに逮捕されていた関根元のそれまでの生活ぶりを取材するために秩父へ向かっていました。ところが、移動途中に“どうやら、関西でかなり大きな地震があったらしいぞ”という知らせが入ります。その瞬間から、僕ら取材クルーを乗せた車はすぐに東京駅に向かいました」  東京駅に向かう途中にも、時々刻々と関西の惨状が飛び込んでくる。これは、今までに経験したことのない大惨事なのではないか? 今、こうしている間にも被害はとてつもなく大きくなっているのではないか? 自分たちは何を報じるべきなのか? 何ができるのか? さまざまな思いが交錯する中、大村たち取材クルーは東京駅に到着した。 「東京駅に着いたら、すでに新幹線は止まっていました。フジテレビとしては何としてでも現地に行かなければならない。いろいろ調べたら、徳島と岡山に向かう飛行機が出ていることがわかった。そこで、岡山経由で向かうクルーと、徳島ルートのクルーとワイドショーチームを分けて向かうことになりました。僕は徳島で飛行機を乗り換えて伊丹空港まで行きました。結果的には僕たちのクルーが最初に現地入りしたんです……」  フジテレビの全リポーターが総動員された。ベテランも若手も関係なく、それぞれのルートで現地入りをして、それぞれの立場から、「今、何が起こっているのか?」を伝えていくことになった。この瞬間から、大村にとって、一生忘れることのできない不眠不休の取材活動が始まった。
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息を呑むような惨状を目の当たりにして
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1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

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