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崎陽軒のシウマイ弁当が“駅弁の雄”になるまでの紆余曲折「横浜駅は駅弁に不利」

シウマイ弁当

鮭バージョンのシウマイ弁当

 8月9日、崎陽軒は、看板メニューの「シウマイ弁当」の一部食材を一時的に変更することを発表。コロナ禍による原材料の安定供給の確保が難しいための苦渋の決断だったが、期間限定というレア感から客が殺到し品薄になった。これほど注目されるシウマイ弁当の歴史について、崎陽軒に聞いた。

シウマイなしでスタートした崎陽軒

崎陽軒

大正4年当時の崎陽軒

 現在では崎陽軒の代名詞ともいうべきシウマイだが、創業当時はメニューに存在していなかった。鉄道が全国的に建設され、旅行者が増加した時代、崎陽軒の始まりの姿について、広報担当の山本茜さんは次のように話す。 「日本の駅弁は明治18年に宇都宮駅で始まったという説があり、握り飯と沢庵といったものでした。崎陽軒の創業は明治41年で、当時の横浜駅(現在の桜木町付近)構内での駅弁販売が最初でした。最初は、お餅やお寿司などの食べ物と、サイダーや牛乳といった飲み物を販売していました。シウマイが誕生したのは、創業から20年後です」  握り飯と沢庵だった時代に、寿司やサイダーなど販売していたのは先進的で、旅行者の目にはハイカラに映ったことだろう。そこからどのようにして、シウマイが看板商品として登場してくるのか。そこには、崎陽軒が誕生した横浜という街の欠点と利点があった。 「横浜駅は、駅弁の販売にあまり向いていないんです。上り列車だと、東京まであと約30分で着きますし、始発の東京駅で買われてしまうので、駅弁があまり売れない駅だったんです。その状況を、名物を作ることで打破したいと、初代社長は考えていました。  横浜には、当時『南京町』と呼ばれていた現在の中華街があります。初代社長が、中華街のお店をいくつも食べ歩いて名物を探したそうです。すると、どの店でも突き出しとして出されていたのがシウマイだったので、名物にしようと考えました」

シウマイを名物にしたが不毛の時期も

 中華街からヒントを得た初代社長は、シウマイの開発のために点心職人をスカウトし、1年に渡る研究を重ね完成。そこには、中華街と違った駅弁ならではのこだわりが詰め込まれた。 「駅弁なので、どうしてもお客様の口に入るときには冷めてしまいます。そこでこだわったのは『冷めてもおいしいシウマイ』でした。豚肉と玉ねぎの他に、他では入っていない干帆立の貝柱を入れることで、冷めても味が落ちないシウマイが出来上がったんです」  こうして1928年、納得のいく商品ができた。しかし、横浜駅が駅弁にとって不利な立地であることには変わりない。シウマイも当初はその不利を覆すことができず、1日に10〜20折ほどしか売れない時期が続いたという。ブレイクスルーを起こしたのは、当時としては奇抜すぎる販促方法だった。 「売り上げが上がらずに苦労した時期は、発売から20年ほど続きます。それでも初代社長には、シウマイを横浜の名物にという思いがあったので、様々な方法をとりました。まず、横浜市の上空に飛行機を飛ばして、そこから無料引換券付きのビラを市内に撒きました。  戦後、赤い制服の『シウマイ娘』と呼ばれる女性たちが、駅のホームで立ち売りをして『横浜にシウマイ娘あり』と言われ、野球選手とシウマイ娘の恋を描いた小説が映画化されるほど話題になりました。それでようやく、1日に1000折以上売れるようになりました」
シウマイ娘

映画の題材にもなったシウマイ娘(昭和25年頃)

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シウマイ弁当の理想は800kcal
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Boogie the マッハモータースのドラマーとして、NHK「大!天才てれびくん」の主題歌を担当し、サエキけんぞうや野宮真貴らのバックバンドも務める。またBS朝日「世界の名画」をはじめ、放送作家としても活動し、Webサイト「世界の美術館」での美術コラムやニュースサイト「TABLO」での珍スポット連載を執筆。そのほか、旅行会社などで仏像解説も。

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