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経済で失敗しまくった天保の改革。呉座勇一が考える水野忠邦の問題点とは?

経済政策、憲法改正、Z世代の困窮etc. 日本人が抱えている大問題の解決策を、歴史から紐解いていく「呉座式・日本史フルネス」。 著書『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)が48万部の大ベストセラーとなった歴史学者・呉座勇一氏が、現代と過去を結びつける“未来志向の日本史”を丁寧に解説する。 今の日本の突破口とは? 気鋭の学者が読み解く重厚な歴史の流れから、最善策を見出していく。 呉座式日本史フルネス

小手先の政策を乱発した改革の末路

 幕府権威の復活を企図した天保の改革(1841~)は、主要な目的であった物価安定化を果たせないままに進行する。結果を急いだ老中の水野忠邦は、小手先の政策に着手する。天保12年(1841)12月13日に当時のカルテルであった株仲間の解散を命令したのだ。買い占めを行う株仲間を解散すれば、自由な取引によって物資流入が増加し物価が下落するというのが、水野の想定であった。既得権を解体する“規制改革”によって苦境を打破しようとしたのである。  しかし水野の思惑は外れた。株仲間解散は流通機構の混乱をもたらしただけで、味噌・醬油・灯油・木綿・紙などの生活必需品の江戸への入荷量は依然として増加しなかった。結局、水野は市場に介入せざるを得なくなる。天保13年5月には物価引き下げ令を出し、広範な品目を対象に物価統制を行った。ほぼ同時期、水野は地代・店賃の引き下げ令も発令している。割を食う商人たちは値段を下げる分だけ品質・形量を落とすことで抵抗した。さらに職人・日雇い労働者の賃金も引き下げたので、物価が下がっても庶民の生活が楽になったわけではなかった。

財政悪化の根本原因は、改革に至らぬまま……

 水野はこの時になってようやく、抜本的な対策にも目を向ける。文政元年(1818)からの度重なる悪貨への改鋳が物価騰貴の主因であることは明らかだったため、貨幣の良貨への改鋳を模索し始めた。だが幕府財政を預かる勘定所が抵抗し、実現には至らなかった。  これまで幕府が貨幣改鋳を繰り返してきたのは、改鋳による利益(金銀の含有量を減らすことで、その分の金銀が幕府の収入になる)で赤字を補塡するというその場しのぎの帳尻合わせが常習化していたからである。したがって財政健全化の道筋がつけられない以上、良貨への改鋳には着手できない。水野は倹約令によって歳出の抑制に努めたが、大幅な削減は困難だった。そこで水野は幕府直轄領において年貢の増徴を行うとともに、大坂町人に御用金(幕府から臨時の上納金の要求を受けること)を課した。幕府財政改善を狙った安易な増税策である。当然大きな反発を招いた。  天保14年6月、追いつめられた水野は、江戸および大坂周辺の大名・旗本領を取り上げて(替地を与える)幕府直轄領とする上知令を発した。その目的については諸説あるが、一つには、年貢率の低い幕領と、高い大名・旗本領を交換することで幕府収入を増加させる意図があったと考えられる。  けれども上知令は、各地での強い反対運動に加え、幕府内でも土井利位や遠山景元ら多くの要人が反対したため、撤回に追い込まれた。これが引き金となり、閏9月13日に水野は老中を罷免される。
呉座勇一 日本史フルネス

若い頃から、幕府財政への危機感を抱いていた水野忠邦。12代将軍徳川家慶の元で老中に抜擢されるも、改革は順調に進まなかった。引退後は、「十年も老中を続けたことを後悔している」とその失意の思いを自作の詩で残した(東京都立大学所蔵)

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負のスパイラルに陥っていた江戸幕府は、何を見落としていたのか?
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1980年、東京都生まれ。日本中世史を専門とする歴史学者。’16年に刊行された『応仁の乱‐戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)は、48万部を超えるベストセラーとなり、歴史学ブームの火つけ役に

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