デフレ不況に誘導する経済政策に、反対の声続出。それでも天保の改革が強行されたわけとは
経済政策、憲法改正、Z世代の困窮etc. 日本人が抱えている大問題の解決策を、歴史から紐解いていく「呉座式・日本史フルネス」。 著書『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)が48万部の大ベストセラーとなった歴史学者・呉座勇一氏が、現代と過去を結びつける“未来志向の日本史”を丁寧に解説する。
今の日本の突破口とは? 気鋭の学者が読み解く重厚な歴史の流れから、最善策を見出していく。
江戸時代後期に天保の改革(1841~)を主導した幕府老中の水野忠邦は、武士階級の利益を重視し、厳しい倹約令を施行することで物価安を誘導した。
米価が下がり、それ以外の物価が上がることは、年貢米を財政の基盤としている幕府や諸藩の窮乏に直結し、個々の武士の生活難にもつながるので、物価対策は重要だった。しかし、デフレ政策の採用は、それだけが原因ではない。
江戸の繁栄は、江戸への人口集中を生み出した。地方の農村から人口が流出し、江戸に集まってきたのである。農村人口が減少し都市人口が増加するということは、生産者が減り消費者が増えることと同義である。凶作の年には飢饉が深刻化することが懸念された。
天保の改革の半世紀前に行われた松平定信の寛政の改革(1787~)でも、農村を捨てて江戸に流入した貧困層に対して帰農を促してきたが、効果は薄かった。江戸は娯楽や働き口が多い魅力的な町なので、当然である。寛政の改革は現代の「地方創生」と類似の困難に直面して立ち往生した。
その後、文化・文政期には幕府は緊縮財政から積極財政(放漫財政)に回帰し、好景気に沸く江戸への人口集中はますます進む。そこで水野忠邦は、江戸経済を政策的に不況にし、江戸の魅力を減じる過激な手段によって、江戸一極集中を是正しようとしたのである。
デフレ不況に誘導する経済政策は、なぜ強行されてしまったのか
飢饉への備えのためにも、江戸への人口集中は解決すべき問題だった
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1980年、東京都生まれ。日本中世史を専門とする歴史学者。’16年に刊行された『応仁の乱‐戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)は、48万部を超えるベストセラーとなり、歴史学ブームの火つけ役に
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