歌舞伎、落語も経済の道具に。現代のコロナ禍に被る水野忠邦の政策
経済政策、憲法改正、Z世代の困窮etc. 日本人が抱えている大問題の解決策を、歴史から紐解いていく「呉座式・日本史フルネス」。 著書『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)が48万部の大ベストセラーとなった歴史学者・呉座勇一氏が、現代と過去を結びつける“未来志向の日本史”を丁寧に解説する。
今の日本の突破口とは? 気鋭の学者が読み解く重厚な歴史の流れから、最善策を見出していく。
経済政策は意見対立を放置して見切り発車してしまう場合がある。江戸後期の三大改革の一つ、天保の改革(1841~)は、その代表例と言っても差し支えないだろう。幕府老中の水野忠邦は、江戸が寂れてもいいという強硬姿勢で物価高騰を抑えようとしたが、江戸北町奉行の遠山景元は、江戸庶民の暮らしを守るという観点からそれに反論した。両者の具体的な争点の一つが、下層町人の娯楽だった寄席の取り締まりである。
寄席全廃を唱える水野に対し、遠山は必死に抵抗した。この論争は天保12年(1841)11月に始まり、翌天保13年2月までもつれこんだ。結果211か所の寄席が15か所に激減し、演目も民衆教化に役立つ講談の類いに限定された。
水野の弾圧の矛先は上層町人の娯楽である芝居(歌舞伎)にも向かった。当時江戸には、 堺町の中村座、葺屋町の市村座、 木挽町の森田座の三座があり、「江戸三座」などと呼ばれた。たびたび火災に遭ったが、そのたびに再建された。ところが天保12年10月に三座のうち、堺町と葺屋町(ともに現在の日本橋人形町三丁目あたり)が焼失すると、水野はこれを奇貨として芝居町の取り潰し、ないしは移転を提起したのである。
水野は、芝居小屋や料理茶屋が林立する盛り場の風紀の乱れが、市中の風俗に悪影響を与えていると考えていた。この時期、歌舞伎は流行の最先端であり、歌舞伎の演目や衣装は江戸市中の風俗に大きな影響を与えた。
水野は歌舞伎を「風俗の害」と見なしていた。たとえば、歌舞伎役者の華美な暮らしが、彼らに憧れる町人たちに“伝染”していると分析する。水野は歌舞伎バッシングにより江戸っ子を威圧し、新しい生活様式を植え付けようとした。「不要不急」のエンタメ業界が目の仇にされるあたり、コロナ禍の現代と通じるものを感じる。
この問題でも遠山は反対論を貫いた。芝居座はこれまで何度も焼けているが、そのたびに跡地に再建させているので、 撤廃は論外であると説いている。加えて、辺鄙な場所への移転についても、芝居関係者とその周辺住民が生活困難になるという理由から反対した。
水野忠邦の経済政策の手は、文化にまで及ぶ
江戸の華を壊滅状態に陥れた、ポリコレ的ムーブメント
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1980年、東京都生まれ。日本中世史を専門とする歴史学者。’16年に刊行された『応仁の乱‐戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)は、48万部を超えるベストセラーとなり、歴史学ブームの火つけ役に
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