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坂本龍一は、驚くほど気さくで、唯一無二の人だった/佐々木敦

音楽=現在進行系の「自伝」

 彼は「教授」と呼ばれたが、しかしどこのアカデミーにも属してはいなかった(彼は東京藝術大学の大学院を修了したが、生涯どこかの「大学」に精神的に帰属することはなかった)。彼は本質的には独学者だったと思う。と同時に、その自由で開かれた感性と強靭な知性によって、他者の声に耳を傾けること、先人の智慧に敬意を払うことも忘れはしなかった。彼の音楽、彼の楽曲、彼のアルバムのどれを聴いても、そこに刻まれている以上の時間と空間が拓けている。と同時に、その時々の「現在」も、実に生々しく感じられるのだ。彼は時代や状況に即応しつつ、むしろそのことによってタイムレスな存在になったのだと思う。
ラストアルバム『12』

ラストアルバム『12』(2023)

 彼にとって音楽とは、自分が生きていることの記録だった。それは「日記」と言い換えてもよい。そして彼は、ラスト・アルバムとなった『12』で、そのことをあらためて明瞭に示したのだった。がんとの闘病の只中で、ピアノとシンセと環境音によって綴られた「日記」としての楽曲は、すべての曲名が日付になっている。しかしそれは、それ以前の彼の膨大な音楽もまた、ある意味では「日記」だったのだということである。生の記録としての、現在進行形の自伝としての音楽。

確信犯的なアクティヴィストとして

 ある時期から彼はさまざまな環境問題へのコミットメントを積極的に行なうようになった。ロハスという言葉があった。「Lifestyles of Health and Sustainability」。「健康で持続可能な生活様式」。彼にとってこの言葉は聞こえの良いキャッチフレーズなどではなかった。彼が本気であったことはその後の活動が証明している。問題の大小、ローカルとグローバルの違いにかかわらず、彼は数多くの事案に関与していった。健康で持続可能な生活様式を守るためならば、およそ知らぬ者のいない自分の名前を敢えて利用する/させることも厭わなかった。この点で彼は確信犯的なアクティヴィストであり、その振る舞いは戦略的でさえあった。
2012年 坂本龍一

東日本大震災1年後の2012年3月11日、坂本龍一さん(右)が登壇したイベントを日刊SPA!で取材していた。左から、映画監督・岩井俊二氏、アジアン・カンフー・ジェネレーション・後藤正文氏

 彼は個人としての危機感を、公的な存在としての「坂本龍一」によって具体的な力へと変換した。何もそこまで、という周囲の声よりも、自分自身の意志を大切にした。それはつまり、自分がいなくなった世界に責任を負うということである。自分の生命が途絶えたのちの地球の行く末が彼は心配だった。地球が、世界が、取り返しのつかない悲劇へとひた走ってゆくのをなんとかして食い止めようとしたのだった。そしてそれは、彼の人生の終わりのぎりぎりまで続いたのだ。
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坂本龍一がいない世界で
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