坂本龍一は、驚くほど気さくで、唯一無二の人だった/佐々木敦
「坂本龍一がいない世界がやってきた」。
そう表現するのは、坂本さんと長らく交流があった思考家の佐々木敦氏だ。日本のポピュラー音楽史を通覧する氏の近著『増補・決定版 ニッポンの音楽』 でも、4章のうち丸々1章がYMOと坂本龍一さんに割かれている。
3月28日に逝去した坂本龍一さんの人と音楽について、寄稿して頂いた(以下、文/佐々木敦氏)。
1979年、私は中学生だった。ある日、学校から帰ると、自宅のテレビに奇妙な光景が映し出されていた。不思議ないでたちをした男たち(女性もいた)が、不思議な楽器(機械?)を無表情で操りながら、それまで聴いたことのなかった不思議な音楽を奏でている。その音楽は「テクノ」と呼ぶのだとそのテレビのニュースは教えてくれた。不思議な集団は、不思議な音楽を引っさげて、海外でコンサートを行ない、大評判を取っているのだという。彼らの名前はイエロー・マジック・オーケストラ、そう、YMOである。
私はまだ音楽に興味を抱き始めたばかりだったが、それは文字通り「未知との遭遇」だった。私はYMOの音楽、その存在にすぐさま魅惑された。そしてそのなかのひとり、シンセサイザーを颯爽と弾いていたのが、坂本龍一だった。もちろんこの時、私は自分が将来、音楽ライター/評論家になって、YMOのメンバーだった細野晴臣、高橋幸宏、とりわけ坂本龍一に幾度となくインタビューをすることになるとは、知る由もなかった。
最初の取材がいつだったのか、実は覚えていない。だが九十年代のどこかであったことは確かだ。私は一時期、週刊SPA!も含めて、極めて多くのミュージシャンのインタビューをこなしていた。坂本さんと会ったのも、そのうちのひとつだっただろう。気づけば新譜が出るたびにどこかの雑誌で取材をするようになっていた。二〇〇〇年代の終わりくらいまで、私は継続的に彼と会い、さまざまな話を聞き、彼がパーソナリティーを務めるラジオ番組にゲスト出演をしたり、ニューヨークのスタジオに招かれたりもした。
いつ会っても彼は、驚くほどに自然体で、気さくだった。インタビューと言いつつ、それは限りなく雑談(良い意味で)の様相を呈していった。しかしいかにもカジュアルな語りぶりのなかに、思わずハッとさせられるような閃きや、あとあとまで考えさせられる深い思索の芽が潜んでいるのだった。
とにかく彼は好奇心が旺盛だった。世界のどこかで新たな何かが生まれつつある気配にきわめて敏感だった。当時の私は実験的、前衛的な音楽をいちはやく紹介することを得意にしていたが、彼はいつも音楽に今、何が起こっているかを知りたがった。私が挙げたいまだ知られざる音楽家たちや、海の向こうで産声を上げたばかりの音楽ジャンルに、彼は純粋な興味を示して、直感的に的確に取捨選択しながら、自分の音楽に取り入れていった。彼ほど変化することをおそれず、音楽の、芸術の新しさを信じていた人を私は他に知らない。
だがもちろん、彼は同時に、新しさだけが価値ではないということも知っていた。音楽には豊かな歴史があり、彼はその肥沃な土壌があってこそ新しい生命が宿るのだということをよく知っていた。そうして彼の音楽は、進化と変化を刻々と更新しながら、休むことなく私たちの耳に届けられた。テクノ、クラシック、ポップス、ミニマル・ミュージック、アンビエント、ジャズ、エスニック、ファンク、ボサノヴァ、エレクトロニカetc..、彼が自家薬籠中のものとした音楽は多様かつ膨大だった。
しかしそのどれを取っても、単なる一過性の流行への反応とはまったく違っていた。そこには柔軟なスタンスと鋭い分析が常に同居していた。結果として、それは必ず、強固なまでに「坂本龍一の音楽」になっていた。彼は変わり続けるという一点において変わらなかった。
いつ会っても、彼は驚くほど気さくだった
The Changing Same
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