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「障害者が堂々としてんじゃねぇぞ」と怒鳴られたことも…“死にきれなかった”女性が車椅子生活でたどり着いた境地

 障害者と健常者の隔たりは、遠いようで近い。近いようで遠い。 「自分が障害を背負ってみて気づきました。健常者のなかには一定数、露骨に障害者を見下す人がいるんです。道でアイスクリームを食べていると、おじさんに『障害者が堂々としてんじゃねぇぞ!』と怒鳴られたこともあります。舌打ちをされたり、ぶつかられたりは割と日常茶飯事です」  車椅子に乗ったシンガーソングライター・曽塚レナ氏はあっけらかんとそう話す。そこに悲壮感は一切漂わない。理由を「さすがに障害のある人を攻撃したことはないけど、かつて私も世界のすべてが敵だと思って生きてきたから」と続けた。  曽塚氏が車椅子を必要とするようになったのは、今から7年前のこと。
曽塚レナ氏

曽塚レナ氏

難関校に入学も、問題児に…

 幼いころ、曽塚氏の両親はレナ氏の持病療養のため、もともと住んでいた都会を離れて関東地方の自然豊かな場所に転居した。父親は世界を股にかけて活躍するサラリーマン。自宅に長く滞在こそしない人だったが、十分な学ぶ環境を与えてくれた。中学受験を突破し、難関校への入学を果たした。 「通っていた公立小学校は、『この問題がわかった人はちょっと待っていてね』と待たされる時間が長く、退屈だった思い出があります。机に突っ伏して寝ていることの多い児童だったと思います。しかし、入学した中学校はいわゆる“真面目な子”が多くて、中学校2年生くらいで私は早々にグレはじめました。学校にはお弁当の時間から行って、ケータイをいじって……みたいな問題児です。思えば小学校から中学校くらいにかけて、『自分の気持ちをわかってもらえない』という孤独感が色濃くなったように思います」

当時は「人の真心を生活の糧にしていた」

 思いを共感できる人がいない。思春期には誰もが抱くこの感覚に、曽塚氏は大学受験を経てもなお取り憑かれたままだった。 「進学校として有名な場所なので、当然日本でも上位の大学へ進学する子が多いわけです。落ちこぼれていく自分の逃げ場として、かねてから興味のあった美術を選びました。ところが志望していた美術大学には落ちて、浪人することになりました。環境を変えたくて、私は実家から離れてひとり暮らしをすることにしたのです」  人とは分かり合えないと早々に見切った曽塚氏の生き方は、ある意味で清々しい。水商売で得た客からの「優しさ」で食いつなぐ日が続いた。 「当時の私は、『人生はサバイバルだ』と本気で思っていました。誰かから援助してもらい、『ありがとう』と笑顔を作っても、本心ではなんとも思っていませんでした。人の真心を生活の糧にしていた部分があります。誰かに心から感謝した経験は、ほとんどありませんでした
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マンションの屋上から身を投げて…
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ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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