更新日:2024年02月13日 16:01
カーライフ

「車がないのは人権がないのと同じ」高齢者ドライバーに怯えながら生きる田舎モンの現実/猫山課長

■車がないと「文化的な生活」は、まず不可能

仕事に行くとき、バスや電車がないことはないが、バス停や駅に徒歩や自転車で行くには距離がありすぎる。そして本数も少ないから、一本乗り遅れたら遅刻が確定してしまう。買い物だって車でないと行けない。最寄りのスーパーというものが、片道3㎞以上あるなんてザラなのだ。車がなければ、文化的な生活を享受することは不可能だ。 しかし、高齢になると運転は徐々におぼつかなくなる。そうなれば、車は凶器になる。 車を走らせていると、明らかに挙動がおかしい車に遭遇する。フラついたり、妙に低速だったりしている。そんな車からは距離を離すようにしている。間違いなく高齢者、それも相当に年齢がいっている人物が運転しているからだ。 交差点で横にならんで隣を覗いてみると、シートより小さい体のよぼよぼと言っていい高齢者が運転していることがある。絶対に緊急回避的操作などできるわけがない。見ただけでわかる。運転すること自体が、危険極まりない行為だといいたくなる。 でも、運転しなければならない。運転しなければ、生活ができないから。 田舎だと高齢者が田畑に行くことがよくあるが、肥料だの資材だのを定期的に購入しなければならない。近くのホームセンターで購入し、田畑まで持っていくことになるが、重い荷物を徒歩や自転車で運ぶのは非常に困難だ。どうしたって車がいる。 また、医者に行くのもやはり車がいる。前述したが、最寄りのバス停や駅が歩いて行ける距離じゃない。車がなければ、薬ひとつもらうことはできない。そして高齢者は、医者に行かなければならないのだ。

■田舎におけるマイカーは「人権」と同じ

なら、家族の協力を得ればいい。あなたはそう思うかもしれない。でも、家族も暇じゃない。 田舎は平均所得が低いから、共稼ぎは当たり前だ。平日は家に高齢者以外は誰もいない。休日になれば子供の送迎や部活などで家族は出ていってしまう。忙しそうな若夫婦に対し「医者に行って待ってもらってそのあと買い物にも付き合って欲しい」などと軽々しく言えない。断られはしないが、苦々しい顔をされるかもしれない。そんなもの、見たくないのだ。 自分の意志で、気兼ねなく行動するための必須のアイテム。それが車なのだ。田舎において、マイカーは人権を担保している。だから、絶対に運転し続けたいと願う。たとえ、誰かを殺傷せしめる可能性が高まっていったとしても。そして家族は、大事な家族の人間としての尊厳を奪うことができずにいる。 田舎には、最後まで人間らしく生きたいと願い運転を続ける高齢者がいる。彼らは、誰かの人生を終わらせる可能性が高まっているのを意図的に無視し続けている。 歩いている高齢者が、誰かを殺傷せしめる可能性はほぼゼロに近いだろう。だが、運転する高齢者は安易に人を死に至らしめる力を持っている。田舎の高齢者は、都会の高齢者など比較にならないくらいに危険な存在となってしまった。 運転しなくても人間らしく生きられる都会との残酷な格差を思いながら、今日もサビの浮いた古い軽自動車との車間距離を空ける。 そして、自分はどうなるのだろうと、ぼんやりと考える。
金融機関勤務の現役課長、46歳。本業に勤しみながら「半径5mの見え方を変えるnote作家」として執筆活動を行い、SNSで人気に。所属先金融機関では社員初の副業許可をとりつけ、不動産投資の会社も経営している。noteの投稿以外に音声プラットフォーム「voicy」でも配信を開始。初著書『銀行マンの凄すぎる掟 ―クソ環境サバイバル術』が発売中。Xアカウント (@nekoyamamanager
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