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「人間が持つ、可笑しみと狂気」――32歳ピアノ講師の“静かな崖っぷち”/『アイスネルワイゼン』書評

―[書店員の書評]―
 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。

三木三奈・著『アイスネルワイゼン』(文藝春秋)

 先日行われた第170回芥川賞発表の日、私は職場のPCで固唾を飲んで会場の配信を見守っていた。そしてホワイトボードに貼られた受賞作を確認し、「ああ~ッ!!」と、ほとんど膝から崩れ落ちそうになった。推しの作家が落選したのだ。獲ってほしいと思っていた作家の2人ともが落選したのだが、落ち込むのも束の間、同時にメラメラと熱い思いがたぎった。「私が絶対にめちゃくちゃ売ってやる!!」。  今回の芥川賞候補作である、三木三奈の『アイスネルワイゼン』は惜しくも受賞を逃したが、読んだ者には強烈なインパクトを残したに違いなく、私もそのひとりである。  主人公の琴音は32歳。会社員を辞め、現在はフリーでピアノ教室の講師として働いている。だが、なかなか思うように生徒は育たず、プライベートにも暗雲が立ち込め、もやもやとしている最中、学生時代の友人からある頼みの電話を受ける。それは、クリスマスイブに歌手の伴奏をするアルバイト。断りきれず渋々承諾した琴音だが、嫌味な中年女性であったその歌手は、琴音に数々の嫌がらせをする。公演後、依頼をしてきた友人に抗議するも、謝罪されるどころか学生時代の不満をぶちまけられ、嘲笑われて喧嘩になる――。  琴音はこのクリスマスイブを境に、我々読者にもそうとはわからないかたちで静かに崩壊していく。致命傷ではないのだが、しかし確実に琴音の心を追い詰める出来事が重なっていくのだ。それらは一見取るに足らない出来事ばかりなので、一度読んだだけでは気にも留めないかもしれない。  たとえば、5年ぶりに会った友人の子供にクリスマスプレゼントとしてあげた地球儀が、すでに相手の持っているものであったこと。喧嘩中の友人に「すいません」じゃなくて「すみません」が正しいのだ、と訂正されること。夜行バスでカーテンと窓の間にもぐり込んで外を見ていたら、光が漏れるからやめてほしいと注意されること。遠距離恋愛中である恋人との良好な関係を周囲ににおわせているが、実際はほとんど破綻している状況で、それを知らない周囲からプロポーズや妊娠について話を振られること。    地味に辛く、着実に重なっていくダメージである。何度も訪れる苦しさの臨界点の中で、琴音は不自然に明るい。次第に読者である我々も、何か不穏な波が押し寄せてきていて、少しずつ狂っていく羽車に気づき始める。序盤の空気感とは違う、明らかに張り詰めた中盤以降の雰囲気はまるで不協和音のように読者を不安にさせていく。  さらに、不自然でギリギリな行為の連続もこわい。喫茶店でネイルを塗ることや、そこで隣に座った客が「すみません」と声を発したとき(もちろん店員を呼ぶための合図だ)、「はいっ?」と返事をすること。ふらっと入ったマクドナルドでビッグマックを注文するも、販売時間外と言われた琴音が注文したのはアップルジュースのSサイズ。  そして終わりの合図は、喫茶店で誤ってコーヒーをかけられるというかたちで唐突に訪れる。表面張力のギリギリを保っていたコップから水が溢れる瞬間を目撃した我々は、ラストをただ見守ることしかできない。何か大きな事件が起きなくても、ひとりの人間が壊れてしまうにはこれだけのことで十分なのだ。あまりのリアルさに、琴音と読者である自分自身の境目が曖昧になっていく。  同じく、以前芥川賞候補になった「アキちゃん」も収録されているのだが、こちらも一読しただけではわかり得ない、ある仕掛けが施されている。人間が持つ、可笑しみと狂気という表裏一体のありようを、何にも似ていないかたちで見せてくれた三木三奈という存在に衝撃を受けた。  冒頭に書いた、推していたもう1人の作家は小砂川チトである。自らの美学を突き進むがごとく、媚びない作風は唯一無二で、こちらも受賞を逃したことが惜しまれる。    文芸書の担当をしていると、最近の純文学の盛り上がりを肌で感じる。それが本当に嬉しい。それは必ずしも何かの役に立ったり、感動や共感を第一の目的としたりしない作品であっても、読者に求められているということの証左であるからだ。『アイスネルワイゼン』のように、決して派手ではなくても、広く読まれてほしい小説はたくさんある。それらが埋もれてしまわないように、今日も売り場に立っている。 評者/市川真意 1991年、大阪府生まれ。ジュンク堂書店池袋本店文芸書担当。好きなジャンルは純文学・哲学・短歌・ノンフィクション。好きな作家は川上未映子さん。本とコスメと犬が大好き
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