「かわいそうだから」と憐れみ救いの手を差し伸べることは傲慢なのか/川野芽生・著『Blue』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
それが「憐れみ」によるものだということを否定できる者はいるのだろうか。困っている者がいるから助ける、その行為の奥底にある感情。いや、そもそもそれが憐れみゆえのものであることを自覚できないのではないか。では私たちはどうすればいいのだろうか。憐れみをもとにしない救済を、あるいは共闘を、いかにして生み出していくのか。
川野芽生・著『Blue』はそのヒントを与えてくれる物語だ。まず、簡潔に物語のあらすじを紹介しておこう。トランスジェンダー女性である主人公・真砂(まさご)は、高校3年間のうちに自分の輪郭を手に入れたように思える。真砂としての自らのあり方を受け入れてくれる友との出会いはもちろん、演劇と出会い、『人魚姫』の物語をクィア的に翻案した脚本において人魚姫を演じた経験も、真砂の未来に希望を抱かせる。しかし卒業から3年後、真砂は再度名を変え、眞靑(まさお)として過ごしている。そうなった理由は、大学生になって出会った葉月という女性を救いたいという想いが大きなものとなっている(加えてトランスジェンダーに対する攻撃による疲弊や諦めもまた同様に、いやそれ以上に彼女の「再移行」の要因となっているかもしれないことは忘れてはならない)。そんななか、高校の演劇部で演じた『姫と人魚姫』を再演する話が持ち上がり、久しぶりに旧友たちと会うことになるが、女性として生きるのをやめてしまった眞靑は、舞台に上がることを拒否する。
「憐れみ」の感情は一般的に、救われるべき対象として認識される存在=弱者に向けられることが多い。つまり他者(および社会)から真砂/眞靑に向けられるそれであるが、この物語においては、真砂/眞靑が他者に向ける憐れみにより強く意識を置いている。真砂/眞靑が憐れみの感情=自己犠牲で他者を救おうとすること、つまりそうすることで自身を救おうとしないようになることを、物語は要請するのだ。
葉月を救いたいという真砂/眞靑の想いの本質である憐れみは、傲慢さでもある。それは通常、マイノリティがマジョリティから向けられるものであるのだが、マイノリティ当事者である真砂/眞靑ですらその呪縛のようなものからは逃れられていない。そのうえ、その憐れみによる自己犠牲が自身の輪郭を再度失わせることになる。憐れみと自己犠牲の複雑な関係性と、そこから逃れることの難しさ/不可能性を描いているのかもしれない。
つまりこの物語は、マイノリティ当事者に向けて書かれたものなのだろう。ゆえにこの書評も、まずはマイノリティ当事者に向けて言葉を紡ぎたい(私自身が基本的にはマジョリティとして生きることができる状態にあるがゆえの瑕疵や見落とし、憐れみや傲慢さがあったなら、容赦なく指摘してほしい)。
『姫と人魚姫』の脚本を書いた滝上を筆頭に、真砂/眞靑の周りには共に闘っている者たちがいる。闘って〈くれる〉のではない。闘って〈いる〉のだ。みな、それぞれにマイノリティ性を持ち、それぞれのあり方で抵抗をしている様が、本書では描かれる。そこでは真砂/眞靑は従来の「姫=一方的に庇護される対象」ではない。「わたし のためののりものが 用意されていない」(129p)と感じているのは、真砂/眞靑だけではないのだろう。トランスジェンダーであるということ、同性愛者である(かどうかわからない)ということ、性愛を要求されるのが嫌だということ……。
ということを書くと、マイノリティではない自分にはできることがないのか、と思う者もいるだろう。そうではない、と表明しておこう。マジョリティによる共闘もなければ、いつになっても「のりもの」は用意されないのだ。
では、いかにして共闘すべきなのか。つまりその共闘に、「憐れみ」を介在させずにマジョリティが参加することはできるのだろうか。できないかもしれない。マイノリティ当事者である真砂/眞靑自身、憐れみでは自身も他者も助けられないということを理解している。しかしそこから自由になることは簡単ではなく、かわいそうだからという理由で葉月を救おうとしてしまう。それでもそれを目指すほかはないし、希望は確実に描かれている。
まずは真摯に眼差しを向けることだ。社会という舞台の上で生きる演者の振る舞いを、発する言葉を、観客として見つめることから始めよう。そして、社会という脚本家が用意した舞台の上で生きる演者の中にある、言葉にならない(=演技として表出されない)あらゆる想いをまなざそう。要請された脚本通りの演技の中にも、抵抗のしるしが見えてくるかもしれない。いつしか演者は、その脚本を書き換えたいと思うかもしれない。台詞を、配役を、衣装を、舞台装置を、人間だろうと人魚だろうと呼吸ができるものに変えようとする。
それは決して不可能なことではない。私たちマジョリティもまた、社会という舞台の上で生きる演者であり、舞台装置を作り動かす裏方であり、脚本の書き換えに関与する共同執筆者であり、いつだって「当事者」なのだ。その自覚を持って舞台に眼差しを向けるとき、耳を澄ませるとき、身体で空間の響きを捉えるとき、そこに憐れみを介在させることのない共闘が生じるのだろう。
これで正解、となるようなゴールなどどこにもない。常に脚本は書き直され、演劇は再上演され続ける。「それが、君の一番演じやすい人魚姫?」(19p)と私たちが問いかけ続けるその先に、誰もが楽しめる舞台/社会がある。
評者/関口竜平
1993年2月26日生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。著書『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』(大月書店)。将来の夢は首位打者(草野球)。特技は二度寝
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