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3月に「笑点」卒業の林家木久扇が“2度のガンを克服”できたワケを語る「毎朝ガンに向かって…」

子ども心に「明日死んじゃうのかな」という虚無感を抱え…

 二度もガンを患って、もっと落ち込んだり先行きが不安になってもよさそうなもんですけど、そうならなかった。ふたつ理由があって、ひとつはバカの天才だからです。  まだ起きてもいない事件を考えると、頭が疲れちゃう。「不安」を抱えてクヨクヨするのは、頭の無駄遣いです。  毎日忙しくにぎやかに過ごして、パッと寝て次の日を迎える。それが、ぼくのリズムなんでしょうね。  もうひとつは、小学校1年生のときに東京大空襲を経験していること。忘れもしない1945(昭和20)年3月10日、3回目の東京大空襲でB29が290機も襲来して、東京の上空から爆弾を落としたんです。ひと晩で十万人の方が亡くなりました。  そりゃもう、生きた心地がしなかったし、友だちも知り合いもたくさん亡くなってます。  その頃は毎晩のように空襲警報が鳴って、空をアメリカの爆撃機が飛び回ってた。東京のどこかが燃えていて、夜なのに空が明るかったんですよね。  空襲のたびに、いっしょに住んでいるおばあちゃんの手を引いて、近くの小学校の防空壕に逃げ込んでいました。  狭くて真っ暗なところに大勢が肩寄せ合って座って、上のほうで「ゴー」って音を出して飛んでいる爆撃機が行っちゃうのを待つ。今日は頭の上に焼夷弾が落ちてくるかもしれない。  いつ死んでもおかしくないという恐怖と背中合わせだったし、子ども心に「明日死んじゃうのかな」という虚無感を抱えて生きてました。

空襲に比べれば病気なんて怖いうちに入らない

 戦争が終わってからも、引っ越した先で肩身が狭い思いをしたり、父と母が離婚したり、食べるものがなかったりと、いろんな波が押し寄せてきた。  でも、何が起きても「あの空襲のときに比べたら、こんなのは何でもない」っていう思いがいつもあったんです。大病のときも、そうでした。だから落ち込まずに済んだんです。  空襲に比べたら、病気なんて怖いうちに入りません。お医者さんがいるし、食べるものだってある。ぼくも早く治ろうとして、来た仕事は全部受けました。  この日はここに行かなきゃいけないから、それまでに身体を戻そうって気持ちにもなりますしね。
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一生懸命にガンを○っていた?!
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バカの遺言 バカの遺言

愛すべき「与太郎」が
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