更新日:2024年04月05日 18:29
スポーツ

広岡達朗「ユニフォームに袖を通すのは50歳まで」西武監督就任時に誓った信念

“球界の寝業師” 根本陸夫の謀略

日本プロ野球界で実質的なGMとして機能し成功を収めた先例は、やはり八〇年代の西武で〝管理部長〟として辣腕を振るった根本陸夫だろう。GMとは、チーム編成の権限を持つ者であり、ドラフト戦略やトレード、FAや外国人補強等、いかにしてチームを強くするかを担うポジションである。試合の采配や球団経営には携わらない。 八一年秋から西武の〝管理部長〟という要職に就いた根本は、近鉄、阪神の監督就任を断った広岡を監督に招聘するためすぐさま声をかけた。根本は、広島監督時代に広岡をコーチとして呼び寄せた男だ。根本には指導者としての資質はなかったが、人脈作りにめっぽう長けていた。 人脈に必要なのは情報とスピードだ。一歩出遅れたために、すんでのところでチャンスを取り逃がすことなど人生には山ほどある。百戦錬磨の根本は、情報収集とスピード感こそ肝だと心得ており、広岡が近鉄と阪神の監督就任を断ったという話が球界内を駆け巡る前にキャッチし、すぐに広岡へと接触を図ったのだ。 「阪神の監督を断ってすぐに、根本(陸夫)さんから西武の監督にならないかと誘いを受けた。最初は長嶋に断られ、次の上田(利治)はやるって言っていたはずなのに土壇場で断られたという。オーナーの堤さんが『広岡がいるじゃないか』と言ったから、しょうがなしに俺のところへ話が来ただけ」 広岡はまず、親会社である西武グループ関連の書物を全部読み漁った。名声欲しさや契約条件では絶対に釣られない広岡は、西武ライオンズが新興球団ゆえに親会社の理念や経営状態がどうなのかをしっかりリサーチした。そして、西武の監督を引き受けた。 八〇〜九〇年代の西武黄金時代を作り上げたのは、ひとえに現場で選手を成長させた広岡の手腕と、成長しうる逸材を集めてきた根本の尽力によるものだ。この二人三脚がすべてであり、どちらが欠けても黄金期は訪れなかっただろう。 「根本さんは一見、人から頼まれたら嫌と言えない良い男に見える。任俠めいた雰囲気を持っていて、男っぷりも良い。西武では金を使うだけ使ってダイエーに行った。ダイエー でも使うだけ使って亡くなったが、それによって王が浮かばれた。根本さんはそういう男」 球界に蔓延る面倒な案件を治めるのも根本が得意とする仕事で、表には出ない反社会勢力絡みの案件も平気で片付ける。誰も逆らえないアンタッチャブルな存在だった根本に唯一対抗できたのが広岡だ。   満を持しての三年ぶりの球界復帰。初めての春季キャンプ前に、こんなことがあった。強面の根本が小難しい顔をしながら広岡に言う。 「うちはこういうのに長けている。両サイドからキャッチャーのサインを映し出すからプ ラスにせえ」 客席にビデオ班を置いて、スタンドから相手のサインを盗むやり口だ。広岡は呆れた。 「根本さん、キャンプはインチキするためにあるんじゃないですよ」 「わかってる。とにかくキャンプで想定してやらせろ!」 「そんなことしなくても勝てばいいんでしょ。やらなくても勝ちますから」 断固拒否し、サイン盗みといった卑劣な行為をしなくても絶対に勝ってやると誓った。 (次回に続く) ※西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」が3月16日(土)にベルーナドームにて開催予定。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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