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「打撃練習中にバットが飛んできた」巨人ルーキー時代の広岡達朗を襲った“プロの洗礼”とその理由

広岡達朗巨人編

『92歳、広岡達朗の正体』が各書店で発売中

現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後に重版となるなど注目を集めている。 巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格は、どこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体に迫る。 (以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋) 〜読売巨人軍編〜

第二期黄金時代を支えた巨人時代

一九五〇年代後半から七〇年代前半までの後楽園球場のホットコーナーは、カクテル光線以上のスポットライトが常に浴びせられ、白く浮かび上がる別次元の空間だった。 プレイボール前、ファーストの王貞治から投げられたゴロをショートの広岡達朗が軽快に捕球して一塁へ送球する。そこに、サードの長嶋茂雄がツカツカと二、三歩近寄ってくる。右手を軽く口に添え、こう告げる。 「ヒロさん、今日動けないんで頼みます!」 平然とした顔で、守備位置に戻っていく。 「おい、またかよ」 広岡は、苦笑いしながらショートの定位置の土をスパイクで均す。 「面白いやっちゃなぁ」 心のなかで静かにほくそ笑んだ。 〝背番号3〟はいつだって華やかで躍動感があり、守備位置での構えも軽いタッチでいる。 〝背番号2〟の広岡はこれぞ見本といった姿勢で、腰をしっかり落として低い状態のままつま先立ちで構えている。この相反する姿を見るだけで、野球人としての生き方が異なるのがわかる。 広岡が巨人に入団したのは、昭和二九年。戦争が終わってから九年後、戦争の爪痕はまだ残ってはいるが、壊滅状態からの危機は脱し、ようやく混乱期を抜けた感がある頃だ。 当時の巨人は第二期黄金世代と言われ、きらびやかなメンバーばかりが名を揃えていた。投手陣にはエースの別所毅彦、日本プロ野球初の完全試合達成者である藤本英雄、大友工、中尾碩史。キャッチャーには日系二世の広田順一、ファーストに川上哲治、セカンドに千葉繁、サードに宇野光雄、ショートに平井三郎。そしてレフトに岩本堯、センターに与那嶺要、ライトに南村侑好。さらに、監督には水原茂と、プロ野球黎明期のレジェンドがずらりと並ぶ布陣だ。 六大学野球のスター選手として鳴り物入りで巨人に入団した広岡だったが、今の時代のように球団をあげて歓迎ムードで迎えられたわけではなかった。前出のレギュラー陣を見ても一癖も二癖もあるメンツばかり。グラウンドに入れば、自分以外はライバル。この生存競争の激しさこそが当時の巨人の強さを支えていた。
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「いつまでも打っているんじゃねえ」練習中にバットが飛んでくる
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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