更新日:2024年04月05日 18:31
スポーツ

二年目にして先発&ストッパーに大抜擢。広岡達朗が若き渡辺久信を見出した“偶然”

たまたま訪れた広岡の前で挙げた二軍初勝利

当の渡辺GMが当時のことを語ってくれた。 「私がプロに入って1軍に上がるきっかけを作ってくれたのが広岡さんなんです。開幕してからずっとファームで投げていたものの、出れば打たれるの繰り返し。コントロールも良くなくて、フォアボールを出した次の打者にストライクを取りにいって打たれる、ということがしょっちゅうだったんですよね。まったく勝てないピッチャーだったんです。それで、西武球場で初めて親子ゲーム(同一球場で一軍と二軍両方の試合が同日に行われること)があった日に、私は二軍の先発だったんです。 その試合を、たまたま広岡さんが見てたんですよ。そこで二軍初勝利を挙げたんです。良かった良かったと思っていたら、広岡さんが『もうこいつは上で育てよう』と一軍に上げてくれました。他の試合はほとんどダメダメだったのに、二軍でたった1勝挙げただけで一軍に上がれました。運が良かったというか、御前試合でいいピッチングしたおかげですぐ一軍に上がって、そこからずっと一軍でした。何かにつけてきっかけを作ってくれたのが広岡さんでしたね」 2年目の1985年、渡辺は先発ローテーションに入り、開幕第4試合目の4月10日に先発してから4連勝を飾る。ちょうどプロ2年目の日本ハム津野浩志、南海の加藤伸一も台頭し、19歳トリオとしてプロ野球に新風を巻き込んでいる時期でもあった。 ストッパー森繁和が肘痛による体調不良のため、渡辺は5月中旬からストッパーに回り、同月17日から6連続セーブのパ・リーグ記録も作った。 「1〜2年目で、ピッチャーのポジションは全部やらせてもらいました。高卒2年目で全部のポジションを2年間でやるっていうのは、なかなかないですよ。もう敗戦処理からセットアッパーからストッパ-、先発と全部やりましたから。そういう部分では本当ありがたかったなと思いますね」 2年目は、45試合登板、8勝8敗11セーブ、防御率3.20。先発からストッパーまで八面六臂の活躍で2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献した。翌年に16勝、そこから隔年で最多勝を計3度(’86、’88、’90年)獲るなど、西武ライオンズ黄金期を支えたエース渡辺久信。 広岡にとっても工藤公康同様に、本当の意味で手塩にかけたピッチャーの一人。それだけに渡辺が指導者、そしてGMと活躍する姿を今もなおチェックしている。かつての教え子が未来の球界に対してどう働きかけていくのか、あえて厳しい眼差しを向けている––––。 ※西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」が3月16日(土)にベルーナドームにて開催予定。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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