「自分が信じる正義はちょっとしたことで転覆する」“信じること”の意味を問う長編小説/角田光代・著 『方舟を燃やす』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
先日、都内のある温泉施設に行ってきた。とてもいい温泉だったが、その後SNSで検索したら同じ施設を利用した人による「ここの温泉に入ったら肌が痒くなり、見たら湿疹ができている」と腫れ上がった皮膚の写真付きの投稿が拡散されており、他にも同じ被害を訴える人が出てきたりして、ちょっとした炎上騒ぎになっていた。
私はギョッとしたあとに、不思議な気持ちになった。自分が行った日にもたくさんの利用者がいた。おそらく一日の利用者は数百人はいるだろうし、月で累計すれば万人単位になっているかもしれない。仮に施設に問題があったとしたら、もっと大勢の利用者が具合を悪くして訴えているのではないか。自分の身体にも何も異常は起きていない。
もちろん当該の人たちは、温泉に入ったあとに実際に肌に湿疹ができたのだろう。だが人間の身体は「昨日は平気だったものが今日調子悪くなる」ものだ。本当にこれは施設に全責任があって、全方位的に謝るべきものなんだろうか……と考えてしまった。
しかし私のこんな考えは、SNSの投稿に「ここヤバいね!」とコメントをつけて、一週間後にはもう別の話をしている人には決して届かない。人はそれぞれ意識にないレベルで信じる対象を見つけ、それに沿って「いいこと」「正しいこと」をしようとする。彼らにとっての「ヤバいね!」という書き込みは善意であり、正義なので、「信じるもの」が変わらない限り、意見が変わることはない。彼らと私とのあいだでは、「信じてるもの」が違うのだ。
そんなことを考えてしまうのは、最近読んだある小説が影響している。角田光代・著『方舟を燃やす』。人は生きていく中で、限られた情報の中から「信じるもの」を選び取っていく。「これが正しい」と考えたものによって、その人の価値観や正義が作られていく。それが時に「社会」という密集の中で摩擦を起こす。そんなことを描いた小説だ。
物語は二人の人物の半生によって構成される。1967年に鳥取で生まれ、1980年代に東京の大学生として青春時代を送り、その後、都の公務員として生きる柳原飛馬。飛馬の一世代上にあたる1950年代に東京都内で生まれ、1970年代後半に結婚、出産を経験し、以降は長らく専業主婦として生きてきた望月不三子。別々の時代に生きてきた二人はそれぞれに人生で大きな傷を抱えている。
飛馬は小学生の頃に母親を亡くしている。体調を崩して入院した母親を見舞いに行った際、病院内の談話室で、母親と同部屋の患者が「手術で開腹したけど、(癌が進行して)もうどうすることもできなかった、という話だよ」と話しているのを耳にして、「この話は母親のことだ」と思い込む。母から自身の病状が思わしくないと聞かされた飛馬は、談話室で聞いた内容と母の言葉をリンクさせて病室で慟哭してしまった。飛馬の母親はそれから間もなく亡くなった。飛馬は自分が泣いたことで母親に「自分はもう助からないのだ」と察知させてしまった、という後悔を抱えている。
不三子は妊娠後に参加した講習会を通じて肉や魚、化学調味料を使わないマクロビオティックの食事法に出合い、「家族に健康にいいものを食べさせたい」という願いから家庭内に取り入れていく。しかし「身体に悪いものは取り入れない」という考えの不三子の食事方針は、夫や子供たちとの間に少しずつ距離を与えていく。小さな隙間を生みながら続いていた親子関係は、やがて決定的な亀裂が入る出来事を迎える。
「なぜこんなふうになってしまったんだろう」という欠落感を抱えた二人は、やがて子ども食堂を運営する地域プロジェクトで一緒になる。しかしそこでやってきたのはパンデミック。「これは危ない」「これがいいらしい」という情報が錯綜する世界だった……。
後半、飛馬は公的なSNSアカウントの「中の人」としての業務を請け負うが、そこで余計なことを書き込み、拡散されて炎上騒ぎになってしまう。飛馬も不三子も、「よかれと思って」やったことが火種を作ってしまう。「そういうことはやめてほしい」と周囲に言われて一応はわかった返事をするが、本質的にはそんなふうに言われる意味がわからない。心中は反省でなく、「なぜこの人はわかってくれないのだろう」という憤りに近い戸惑いを抱えている。
それは二人が信じてきた「正しいこと」が、他の人の考える「正しいこと」と少し違っているからだ。「正しさ」は、その人が何を信じてきたかで形作られていく。そしてそれは「限られた情報源の中で、人は何を信じるのか」というテーマにつながっていく。
私たちは、どんなときも「自分が正しい」と思っている。けどその判断の根拠になるものは、自分が「何を信じてきたか」なのだ。
こうしたら他人は喜ぶ。こうしたら社会のためになる。その判断の基準になるのは親や家族であり、他人やコミュニティであり、テレビや雑誌であり、インターネットやSNSなのだ。そこから聞いたもの、見たものがその人自身を作っていく。そしてそれは一人一人、みんなが違うものを見ており、「ここが大事なところだ」と考えてる箇所が少しずつ違っている。
先日私が行った温泉施設はSNSで騒ぎが起きたあと、ホームページ上で「当施設は保健所の指導と検査を受けており、今回あらためて保健所と第三者機関の調査を行ったが管理状況は適切であると確認されました」「当施設の温泉の泉質は塩分濃度が高いため、ご利用者様の肌質や体調にあわせてご利用くださいますようお願いいたします」という旨の告知を行っていた。施設名で検索しても「〇〇にやってきました」という、何事もなかったような投稿が大半になっている。SNSで健康被害を訴えたうちの一人は、もう別の話を投稿している。別の一人は今も健康被害と対応の不備を動画で訴えているようだったが、私はそれを見ないまま画面をスクロールさせる。
私は、私が培ってきた「自分の正義」を信じている。けどその正義は時間がたったり、ほんのちょっとしたことで転覆するのかもしれない。この小説を読んでから、「身の回りの何を信じるか」ということをずっと考えている。
「身体にいいものを」と考えて半生を送ってきた不三子は、人生の晩年になってその「正義」が揺さぶられる出来事に直面する。 戸惑う彼女が語る言葉が、読み終わったあともずっと胸に沁みついている。
「私たちは知らない。ただしいはずの真実が、覆ることもあれば、消えることも、にせものだと暴露されることもある。それだけではない、人のいのちを奪うことも、人に人のいのちを奪わせることも、あり得る。そんなことにはじめて思い至り、不三子の内にもしずけさが流れこむ。私は違うという言葉も、そのしずけさにのみこまれていく。私が信じてきたことはなんだったの。私が信じていることはなんなの。しずけさのなか、ただ疑問だけがあぶくのように浮かぶ」(P392)
評者/伊野尾宏之
1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり
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