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「その人にしか書けないものが本である」尾崎世界観の代表作になるべきバンド小説/『転の声』書評

―[書店員の書評]―
 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。

尾崎世界観・著『転の声』(文藝春秋)

転の声』は素晴らしく面白かった。それはこの小説が「クリープハイプの尾崎世界観」にしか書けない話だからだ。  ロックバンド「GiCCHO」のボーカリスト、以内右手は焦っていた。バンドとして着実に実績を積み重ね、テレビの人気音楽番組にも出演するようになるが、あるときから思うように声が出ない。最近では自分の書いた曲なのにうまく歌いこなせなくなっている。SNSでエゴサーチすると「以内さん声出てない?」とか書かれている。  このままでは自分たちはヤバい、と考えた以内は、手がけたライブチケットを定価以上の値段にして売ることで時代の寵児になっていた「カリスマ転売ヤー」エセケンに「俺を転売してくれませんか」とすがりつく――。 『転の声』で描かれるのは、私たちがよく知っている現実世界そのもののようで、ほんの少しだけ違う「設定」になっている。それは誰かが一度手に入れたものに高い値段を上乗せして売る転売行為が人々にある程度許容されていることだ。  上乗せした値段は「プレミア」という名に置き換えられ、アーティストたちはより高い「プレミア」が付くことが人気がある、影響力の強いアーティストとされ、テレビ番組で「今週もっともプレミアがついたチケットは?」という煽りとともに「週刊プレミアムチケットランキング」が発表されたりする。  なかでも音楽系ライブのチケットに特化した転売ヤーを数多く抱える、転売専門のマネジメント会社【Rolling→Ticket】はプレミアの収益の一部をアーティストに分配することで公認化されており、その代表を務める「カリスマ転売ヤー」エセケンは新しいビジネスの成功者としてしばしばメディアに取り上げられている。 「地力のあるアーティストこそ、転売を通してしっかりとプレミアを感じるべきです。定価にプレミアが付く。これはただの変化じゃない。進化だ。だから、私は発展の展と書いてそれを【展売】と呼んでいます」 「定価への敬意が足りないね。(中略)定価があるから転売がある。(中略)定価をおろそかにする売り手に決してプレミアは生み出せない。(中略)迷ったら必ず戻る。どこへ。定価へ」  こういったエセケンの転売ビジネス論には妙な熱量と説得力とうさんくささが同時にあり、読んでるこちらも惑わされてしまう。読みながら、「時代の寵児」としてメディアに出てくる新しいビジネスを成功させた経営者の語り口とエセケンの語り口がよく似ていることに気がつく。こういった行為はちょっとした時代の風向きの流れで変わるので、2024年の今は「転売が公認された世界なんて」と笑えるが、もしかすると数年後にはエセケンの語る「よいものにプレミアが付くのは当たり前」な価値観が広まってるかもしれない。  しかしこの小説の本筋は転売ビジネス論の是非にあるのでない。「音楽活動を続けていく上ではそういったものでさえもすがりたくなる、アーティストを続けていく苦しさ、煩悶」こそがこの小説の本筋である。  主人公の以内は、空いた時間はほぼずっとSNSでエゴサーチをしている。自分たちについて、音楽業界について、人々がどう思っているかを絶えず気にしている。  フェスに出ることになれば出場するステージと出演順が気になり、出れば出たで最前列でこのあと登場する別のバンドのタオルを柵にかけて寄りかかったまま自分たちの音楽には一切反応しないファン、通称「地蔵」を呪う。ワンマンライブをやれば歌にまったく関係ないところで「かわいい!」と叫ぶ通称「ワーキャー」や、曲に込められた思いや工夫に関係なく始まる観客の一方的な手拍子に辟易する。  SNSではいつも自分たちへの文句と注文が飛び交い、あずかり知らぬところで第三者がムーブメントを起こしたり、考えもしなかったところで炎上騒ぎが起きたりする。常に心をすり減らしていて、何をしていても安寧がない。好きな音楽でデビューしたはずなのに。  という話を、当代きっての人気バンドのフロントマン、尾崎世界観が書いている。 「GiCCHO」のボーカリスト・以内右手が苦悩する出来事のどこまでが「クリープハイプ」のボーカリスト・尾崎世界観が体験したことなのか、それは判別がつかない。以内の「思うように声が出ない」苦しみはおそらく尾崎自身の体験から来ているのではないかと思うが、どこまでが実体験でどこからフィクションかは切り分けできない。  だが「音楽を続けることの苦しみ」だけは真実ではないか。 現世で世知辛い日々を送る私たちは音楽に癒やされ、励まされる。だがその音楽を作って歌っている人たちもまた、世知辛い日常に苛まれながら歌を届けていることをこの作品は伝えてくれる。  小説に限らず、「その人」にしか書けないものが「本」であり、その人にしか書けないものに価値がある、と私は思っている。その意味で、この唯一無二の作品は作家・尾崎世界観の代表作になるべきだし、すべての人に読んでほしい作品である。 評者/伊野尾宏之 1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり
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