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全盲の22歳シンガー、幼少期の“音育”に関心を示して「(美空)ひばりさんの歌に心奪われました」

全盲のシンガーが専業に

「東京2020パラリンピック」(コロナ禍のため開催は2021年)の開会式で国歌を独唱した全盲のシンガーソングライター・佐藤ひらり(22)が、3月末に武蔵野音大(東京・江古田)作曲コースを卒業し、専業アーチストとしての道を歩み始めた。
佐藤ひらり

佐藤ひらりさん

――卒業によって気分は変わりましたか? 佐藤ひらり(以下、ひらり):はい。5歳のときから音楽を始めましたが、大学卒業まではずっと学業優先でしたので。これからは曲づくりにたくさん時間が割けると思っています。それと、今後は自分で進む道を切り拓いていかなくてはならないんだとも感じています。 ――大学で得られたものは大きかったでしょうね。 ひらり:ええ。今まで知らなかったコードを覚えられたり、音楽史や作品の背景が学べたりで、とても勉強になりました。いろいろな方とも出会えました。実は高校(筑波大学附属視覚特別支援学校の高等部)のときには、大学には入れないんじゃないかとも思ったんですが、オープンキャンパスで私のCDを聴いてくださった先生が「うちの学校に来ないか」って言ってくださったんです。

音で楽しめる玩具や楽器を母親から

 ひらりは視神経低形成により、生まれつき全盲。このため、母親の絵美さんは幼児のころから音で楽しめる玩具や楽器、CDなどを与えた。それらに対し、ひらりは強い関心を示した。  5歳のとき、保育園の電子ピアノの自動演奏から故・美空ひばりさんの『川の流れのように』が流れてきた途端、顔つきが変わる。それを見逃さなかった保育士が、ひばりさんの歌を何曲も聴かせた。ひらりは瞬く間にひばりさんに魅了される。 ――当時、ひばりさんの作品が理解できましたか? ひらり:理解できたかどうかというより、ひばりさんの歌に引き寄せられたという言い方が近いと思います。心奪われました。 ――その後、練習を積み、人前で歌うようになったのですね? ひらり:はい。最初は高齢者養護施設でした。   ――慰問ですね。反応はどうでした? ひらり:ひばりさんの歌や童謡を歌わせていただいたところ、おじいちゃん、おばあちゃんたちがとっても喜んでくれたんです。「上手だったよ、ありがとう」「また来てね「って。このときの「ありがとう」のお陰で今も音楽を続けられています。  感謝の言葉は幼いひらりを感激させた。もとから絶対音感の持ち主で、歌声も澄んで伸びやかだったが、練習により熱が入るようになった。  その努力が実を結び、9歳だった2010年、障がいのあるミュージシャンたちがその技量を競い合う「第7回ゴールドコンサート」で歌唱・演奏賞と観客賞をダブル受賞する。史上最年少での快挙だった。  歌った作品は『アメイジング・グレイス』。不当極まりない差別を行ってきた黒人奴隷商人が牧師に転じ、過去への後悔と神への感謝を歌った賛美歌だ。聴衆からは割れんばかりの拍手が起こり、審査委員長の湯川れい子氏(88)らが絶賛した。 ――どんな気持ちでしたか。 ひらり:そのときは賞を取りたいと思っていたわけでは全然なくて、だから緊張もせず、「行ってきまーす!」という感覚で歌ったら、思いも寄らず賞がいただけまして。聴いていただいた皆さんに喜んでいただけたので、とても嬉しくなったことをおぼえています。
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東日本大震災が起きた10歳で曲を自作
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放送コラムニスト/ジャーナリスト 1964年生まれ。スポーツニッポン新聞の文化部専門委員(放送記者クラブ)、「サンデー毎日」編集次長などを経て2019年に独立。放送批評誌「GALAC」前編集委員

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