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オーバー40の元パチプロたちに「その後の人生」を聞いてみた<漫画>

4号機撤去と同時に脱パチプロをした建築士

 続いて話を伺ったのは、現在48歳の本多拓人さん(仮名)だ。本多さんは大学卒業後、一旦は就職するも1年で退職しパチプロに。2008年に足を洗って父親が経営していた内装業の会社に就職した。 「大学時代にパチスロにどっぷりハマッてセミプロみたいなことをしてたんですよ。ただ、その頃からゆくゆくは実家の仕事を継がなきゃ……ってのは頭にあったんですが、ホールに行けばカネが落ちてるような時代でしょ。オヤジから『早く継げ!』って散々言われたんですが、ノラリクラリとかわしていたんです」  では、そんな本多さんが足を洗うきっかけとは、なんだったのだろうか。 「2005年の冬に実家に帰って正月をのんびりしてたら、いつになくオヤジが深刻な顔して『カネが欲しいならカネをやる、家が欲しいなら買ってやる。週に2日しか働かなくてもいい。とにかく継いでくれないか』って。ちょうどその頃、みなし機撤去と4号機から5号機に移行するって話が出始めた頃で、なんとなくな不安感を抱いていたんですよ。そんな時にオヤジから頭下げられたもんだから、ちょっと真剣に家業を継ぐこと考えなきゃなって」  そして本多さんは父親にこんな提案をしたという。「あと3年は好きにさせてくれ。そしたら必ずオヤジの下で修行するから」と告げたという。 「2006年から2007年にかけては、全国を旅打ちしましたね。思い出の台が打てる店の情報を調べて旅打ちして打ち散らかしました。地方に行ってその土地の状況がいいとしばらく居着いたりして……。沖縄なんか、1週間の予定が1か月くらいいましたから」  そして2007年9月、4号機完全撤去の日がやって来たのであった。 「完全に白い灰状態(笑)。それで5号機になってから2か月くらいはパチスロをまったく打たなかった。試しに出たばかりの5号機を打ったのは年が明けた2008年でしたね。なんかもう、いいやって気持ちになって、年明け早々にオヤジの会社に入りました」

パチプロとして職人から一目置かれる

 父親の会社に二代目として入ったものの、最初は居心地が悪かった本多さんはいう。 「内装屋って、職人さんとヤンチャな若いヤツが多いんですよ。で、そんなとこにいくら社長の息子だからって、35歳までプラプラしてたヤツが入ってきたんだから、みんな気分はよくない。一応、二級建築士の資格を持ってましたけど、実務は何にもデキませんでしたからね」  そんな本多さんを救ったのはパチプロとしての半生だった。 「なんとなく居場所がない雰囲気だったんですが、ある時、昼メシ食いながらみんながパチスロ雑誌を見てパチスロの話をワイワイしてたんです。で、そのうちの1人が『パチスロなんてやんないでしょ?』って話を振ってきたから、思わず『いや、実はここに入るまで15年近くパチスロで食ってて……』って話したら、みんなビックリ(笑)」  実は本多さん、父親にパチプロをしていたと話してなかったのだとか。 「その頃くらいからですね、仕事終わりにみんなで打ちに行ったり飲みに行ったりするようになって仲良くなって……って。でも、ある日、オヤジにバレて『お前、会社辞めてずっとパチプロだったんか!』って怒鳴りつけられました(笑)」  ここ数年の建築、建設ラッシュで今では仕事も順調だという本多さん。そんな本多さんに思い出の台を聞いた。 「いろいろありますけど、3号機のリノ、4号機はイプシロンですね。リノはBIG中の枚数調整と1枚掛けでタコ出しして初めて店から追い出された思い出の一台。イプシロンはハズシもオイシかったんですが、リール制御とゲーム性ですね。半年くらいでなくなっちゃったんですが、ひたすら打ち込みましたね。リプレイの次ゲームでテンパイしたら激アツとか、よく考えてるなぁって」 「人生にはモラトリアムが必要だと思う」と語る本多さん。だが、10年以上のパチプロ生活については「ちょっと長すぎたモラトリアムだった(笑)」とも。しかし、あの生活があったから今の自分がいたとも言う。  今回紹介した元パチプロの2人は、かなり異質ではあるだろう。誰もが第二の人生を謳歌しているとは限らない。実際、表の仕事に戻れず窮々とした生活を続けている元パチプロも筆者の知り合いにはいる。自由に生きた人生の代償を払うのか、自由に生きた人生を糧にするのか……その人次第なのかもしれない。 取材・文/谷本ススム
愛知県出身の漫画家。パチンコ・パチスロ漫画を中心に活躍し、‘15年より月刊ヤングマガジンで連載を始めた『賭博黙示録カイジ』のスピンオフ『中間管理録トネガワ』が大ヒット。サウナとビールの愉悦を描いた『極上!サウナめし』はサウナ好き必見の一冊 Twitter @hashimotosan84

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