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『先生の白い嘘』騒動で露呈した“認識不足”。人気ドラマでも“茶化したような描写”が

熟慮の甘さが「不適切さそのもの」

『不適切にもほどがある!』は、昭和、(若干置いてけぼりの)平成、令和をうまく縫い合わせた快作エンターテイメントだった。日本社会に対するそれなりの問題提起にもなっていたと思うが、「何で濡れ場だけ特別なんだ?」という熟慮の甘さが、日本のエンタメ界に根深い不適切さそのものと言ってもいい。 『先生の白い嘘』が公開日前日から巻き起こした議論も基本的には、この熟慮の甘さが露呈した出来事(結果)だとぼくは考えている。発端は本作公開日前日にENCOUNTで掲載された三木康一郎監督インタビュー。監督は鳥飼茜による原作を読んで驚き、10年ほど前から映画化企画を構想した。原作の性的描写を懸念したオファー俳優たちは多かったようだが、奈緒が主演に決まった。 奈緒側はインティマシー・コーディネーターの導入を提示したが、監督が「すごく考えた末に、入れない方法論を考えました。間に人を入れたくなかったんです」とインタビューで答えたことが火種となり、問題発言化したのである。 同インタビュー記事が公開されるやいなや、ネット上を中心に監督の発言に集中砲火。記事公開日の翌日、製作委員会が急遽、「『先生の白い嘘』撮影時におけるインティマシー・コーディネーターについて」と題された声明文を発表。当日の舞台挨拶冒頭でも監督が口火を切って謝罪する事態になったのが、事の経緯だ。

重く受け止めなければならない奈緒の発言

三木監督の発言は、どうしてここまで炎上したのか。「間に人を入れたくなかった」という字面からは、ひとりの演出家としての素朴な信念を感じる。映画作品とは、監督と俳優が現場でやり取りする秘め事のような側面が確かにある。 その秘め事からしか生み出されない映画の美学をこれまで誇示し、権力側(監督やプロデューサー)による性加害の温床となってきたことは近年の告発が明るみにしている。撮影現場の透明性が求められ、現場の現実が追求されるべき時代性とそぐわないことは言うまでもない。 主演俳優を導く立場にある監督として熟慮の結果、インティマシー・コーディネーターを導入しなかったなら、それは熟慮そのものが誤りだったと言わざるを得ない。 舞台挨拶で奈緒が「権力に屈することなく、対等な関係で監督とも話し合いましたし、自分の言いたいことも伝えました」と発言したことは、重く受け止めなければならない。
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主演俳優による提言の実績はあったが…
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コラムニスト・音楽企画プロデューサー。クラシック音楽を専門とするプロダクションでR&B部門を立ち上げ、企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆。最近では解説番組出演の他、ドラマの脚本を書いている。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu

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