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「小田急」と「大分県」が異色のコラボ。実は“深い縁”でつながっていたワケ

小田急、もう1つの経営多角化

 そして、安藤による経営多角化のもう1つが「百貨店事業への参入」だ。  箱根山戦争が沈静化しつつあった1960年代前半、小田急も百貨店の建設を計画したが、当然ながら同社が百貨店運営をおこなうことは初めてであった。そのため、グループを束ねてきた安藤が小田急百貨店の初代社長に就任、箱根山戦争に続いてこちらでも東横百貨店(1967年の渋谷本店開業に合わせ商号を「東急百貨店」に改称)の運営をおこなっていた東急グループの協力を受けることとなり、1962年に1号店「小田急百貨店新宿本店」が開業した。
小田急と大分県

現在の小田急百貨店新宿本店。現在も営業を続けるハルク館は安藤時代に開店した建物だ。写真右奥では小田急新宿駅ビルの建て替え・再開発が進む(撮影:若杉優貴)

 当初は現在も小田急百貨店が出店しているハルク館のみで営業していたが、1966年から1967年にかけて小田急新宿駅ビル(2023年解体)に増床出店。その後は町田や藤沢などにも店舗網を広げて首都圏を代表する電鉄系百貨店の1つへと成長することとなったほか、安藤の縁によって九州を代表する百貨店の1つ「トキハ」(大分市)とも提携関係を結ぶに至った(後述)
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安藤の縁により、かつて小田急百貨店と提携関係を結んでいた大分の百貨店「トキハ」。先述したとおり、2000年には利光の生家があったすぐ近くにも出店している(撮影:若杉優貴)

 安藤は1984年に死去。同年、遺族が寄付した遺産などを元に財団法人安藤記念奨学財団(現在の公益財団法人小田急財団)が設立された。

近年まで続いた「小田急と大分県の縁」、復活なるか?

 利光・安藤両氏の縁により、小田急と大分県との繋がりは近年まで続いた。1974年には大分市の国鉄大分駅近くにシティホテル「小田急センチュリーホテル大分」(現:大分センチュリーホテル)が、1975年には大分市郊外にゴルフ場「小田急大分ゴルフクラブ」(現:大分竹中カントリークラブ)が開業。そのほか、臼杵市のニュータウン計画など不動産事業にも関与した。  また、大分市と別府市に店舗を構える百貨店「トキハ」も小田急百貨店と提携して商品券の相互利用などをおこなっていたほか、小田急百貨店では大分県の物産展が度々開かれていた。
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大分駅近く・トキハ百貨店の裏にあった旧「小田急センチュリーホテル大分」。2002年に地元企業に売却、現在は「大分センチュリーホテル」として営業している(撮影:若杉優貴)

 だが、利光・安藤両氏亡きいま、これら大分県内の各社は現在いずれも小田急グループとの資本関係や提携関係を解消しており、今や大分県内において小田急グループとの繋がりを見つけることは難しい。  小田急沿線民のみならず、今や大分県民にさえもほとんど知られていない「小田急と大分県の深い縁」。7月からロマンスカーミュージアムで開催されている大分県・JR九州とのコラボレーション企画「温泉×特急でサマートリップしよう!」では「小田急を創り育てた大分県人」と題して利光鶴松・安藤楢六両氏のパネルも設置された。今回のイベントを通して再び両者の関係が深まり、新たな交流が生まれることを期待したい。
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ロマンスカーミュージアム「温泉×特急でサマートリップしよう!」で展示される竹田市のジオラマ(小田急電鉄プレスリリースより)

<取材・文・撮影/若杉優貴(都市商業研究所)>
都市商業研究所』。Webサイト「都商研ニュース」では、研究員の独自取材や各社のプレスリリースなどを基に、商業とまちづくりに興味がある人に対して「都市」と「商業」の動きを分かりやすく解説している。Twitter:@toshouken
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