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「だらし内閣」「みっとも内閣」酷評される石破内閣の写真。見た目に対する“意識の低さ”があらわしている問題

「だらし内閣」は、積年の環境が生み出した惨劇

 日本にこのような視点の政治記事はあったでしょうか? ファッションデザイナーによる余興ならともかく、ここまで大々的かつ真剣に政治家の服装を論じる風土はありません。 「だらし内閣」は、こうした積年の環境が生み出した惨劇だと言えそうです。では、なぜ有権者の間にそうした批評眼が育たなかったのでしょうか?  演説や答弁が立派ならそれこそ信頼に値するものだ、中身がしっかりしていれば外面は問題にならない、との考え方に共感を抱く傾向はないでしょうか?  それこそが現代人の甘さだと指摘しているのが、シェイクスピア作品の翻訳で知られる劇作家で批評家の福田恆存(1912-1994)です。『私の幸福論』(ちくま文庫)の中で、こう書いています。 <個人の魅力について多くのひとが誤解しやすい点は、人間の外形と内面とは別物だと考えたがることです。外形と内面、いいかえれば肉体と精神、あるいは人相と人柄、この二つのものは別物であるどころか、じつは心にくいほど一致しております。>(p.27) <したがって、私たちは他人と接触するばあい、なによりも自分の美意識と感覚とを頼りにしなければならぬし、同時に、自分というものが、他人の眼に、その外形を通じてしか受けいれられぬということも覚悟していなければなりません。>(p.32)  石破内閣は、この「外形を通じてしか受け入れられぬ」他者の眼の存在しない空白地帯で醜態をさらしてしまったのです。同時に、有権者も長らく「外形」の美醜から内容を吟味する訓練を怠ってきた責任がある。美感よりも言説や理論、いま風に言えばエビデンスに依存する時代の病と言えるでしょう。双方の怠慢と無関心が、ヨレヨレのモーニングで口を半開きにしても平気な内閣を生んだのです。  これがイケメンや美女などの上っ面の話ではないことは言うまでもありません。理にかなった適切な形状はそれ自体で満ち足りた内容を証明し得る、という話だからです。  今回の一件で、昔の政治家はあんなにみっともない格好をしてなかったよなと思い出しました。どこからか緩んでしまった。色々な局面で“公”の概念が失われていることの象徴なのではないかと感じます。  少なくとも、あの写真からは石破総理の言う「納得と共感」が得られないことだけは明らかです。 文/石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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