“印籠”と化していた「マニフェスト」 落選議員が語る【民主党崩壊】の理由Vol.3
民主党政権はなぜ崩壊してしまったのか? エコノミスト・飯田泰之氏と評論家・荻上チキ氏が、民主党前衆議院議員の3名と鼎談を行なった。 参加してくださったのは、先の衆院選で残念ながら議席を失った池田元久氏、田中美絵子氏、宮崎タケシ氏。週刊SPA!2/5・12合併号「週刊チキーーダ!」では紹介しきれなかった、“ほぼ全文”をここに掲載しよう。
⇒Vol.2『民主党に貼られた「ウソつき」というレッテル』
https://nikkan-spa.jp/382123 飯田:田中さんは一期目、国会の場で活動してみての手ごたえというのは如何でしたか? 田中:そうですね。委員会で大臣に質問し、大臣が理解をしていただければ、いい答弁が返ってくる。これは与党の強みであり、実現できる部分は少なくないという経験はいくつかさせていただきました。例えば、社会保障と税の一体改革に関する特別委員会で人工乳房の薬事承認と保険適用の要望を小宮山大臣に質問させていただき、委員会終了後、大臣から「田中さん、いい質問をしてくれてありがとう」と声をかけていただきました。そして、この件については、昨年、薬事が通過いたしまして、実際に一歩、進めることができました。 宮崎:でも、それはある意味、政権与党、政府の機能として当たり前のこと。当たり前のことなんだけれども、もし大臣が違ったらどうなっていたかということです。民主党って、あまりにもトップダウンの党なんですよ。 飯田:しばしば、民主党内の意思決定の過程と仕組みについては、問題点が指摘されるところですよね。どこで何をしたら「党としての決定」と言えるのかがわからない。これでは協議ができないとこぼす自公の政治家は少なくありませんでした。 池田:党内の政策意思決定のプロセス、手続きが不十分なんですよ。それは皆がそう思っていて、途中で改善案を両院総会などで提起されたがそのままになってしまった。 宮崎:自民党には総務会があります。総務会は、いわば派閥親分が集合するような会で、反主流派も参加し、全会一致を原則としています。有力者たちがネゴし、さまざまなバーター取引をして互いに納得する。激高し総務会の場で席を立つなんてシーンもしばしば報じられますが、それも含めての伝統芸能。賛成の人しかいなくなったところで全会一致となるわけです。 ところが民主党の場合は、「官邸主導」とか「強いリーダーシップ」と言っていたわけですが、鳩山政権のときは、ヒラの議員が発言する機会はほとんどありませんでした。政策会議というものがありましたが、そこでの発言は言いっぱなしで考慮されることもない。政府主導の会議が開かれたりもしましたが、そこで発言しても聞きおくだけで、別に誰に意見をすればどうなるのかもわからない状態でした。 それは、菅政権、野田政権となるにつれて改善されたけれども、結局、なにかというと「マニフェスト」の存在なんです。鳩山政権時には「マニフェスト」という金科玉条があった。民主党議員皆、「マニフェスト」に納得して選挙をし、政府はその技術論を詰めているのだからつべこべ言うな、ということです。しかし、次第に、その「マニフェスト」の実現が厳しくなって、「だったら、俺らも議論に加えろよ」となったわけです。 それでも、その転換が不十分で、金科玉条がなくなったにもかかわらず、「官邸主導」の看板は下ろせなかった。 飯田:民主党にとっての唯一の印籠であった「マニフェスト」を失ってしまった。そして、マニフェストと異なる政策が主流派の権限で決めるようになった。こうなると、そのエンパワーメントの根拠がわからない。なぜ決まったのかわからないのに、ついて来いというのは難しいですよね。小沢さんは「それでは従いようがない」となって出たわけです。代表者が小沢一郎氏だったので、「小沢悪い」と言い続け、外に追い出すことができたわけですが、これが仮に小沢さんでなかったら、どうやって排除したんでしょうね。 荻上:たまたま、センターに攻撃できる人がいたから、「ウミ出しをすればいい」という話に回収されてしまったと。 飯田:とはいえ、田中さんのおっしゃるように、トップダウン中心だったということは、民主党はもっと大胆な政策を打ち出すチャンスがあったとも言えます。 荻上:でも、調整機能がないという話だから、そこでまた「リーダーシップ」論を繰り返してしまうと、空虚な結果になりそう。そもそも調整機能がないために、安全運転しかできないということもある。その例として、なぜ民主党内で「脱デフレ」がマジョリティとならなかったのかを、ひとつのサンプルケースとしてお話しいただけますか? 宮崎:「リフレ政策」という意味では、池田先生と私はずっと活動してきたわけですが、やはり、トップダウンの党だから、トップの人が「リフレは正しいことではない」という考えだったからですよ。 池田:今、与党がやっている金融政策とほぼ同じ内容を私は2010年の参院選のマニフェストに盛り込むべきだと主張し、いいところまでいったんですよ。が、最後の最後にダメになってしまった。トップの側近の長老が歴史を誤解しているような人だった。高橋是清が戦後のハイパーインフレを起こしたって言う方だったから。 飯田:1936年に亡くなった人が、1945年にハイパーインフレを引き起こしたって、ものすごいオカルトなんですけどね(笑)。 宮崎:我々の実力不足としか言いようがありませんが、首脳部の数人が頑なだと、党全体の大勢がどうあっても動かないわけですよ。同時に、リフレ政策については、「官僚政治」の話とも無関係ではありません。そもそも財務省的感覚に金融緩和への嫌悪感があります。それに加えて、霞ヶ関一丸となって消費増税を実現させるという流れの中で、増税の障害となりうる金融緩和はやるべきではないという意思があったわけです。 野田政権終盤になって、前原さんらの金融緩和に積極的な発言が目立ち始めたのは、霞ヶ関の本懐だった消費増税が決まり、くびきが取れたので、「少しは好きにしていいよ」って感じになったからではないでしょうか。 ⇒Vol.4『民主党執行部は「大本営作戦家」!?』に続く
https://nikkan-spa.jp/382198 【池田元久氏】 1940年、神奈川県生まれ。NHK政治部記者を経て、1990年の衆院総選挙で、始めは無所属、途中より日本社会党公認として出馬し初当選。1993年に僅差で落選。社民党を離党し、1996年、民主党の結党に参加する。1998年の金融国会を主導。菅内閣では財務副大臣、経済産業副大臣を務める。民主党デフレ脱却議連会長。http://www2u.biglobe.ne.jp/~IKEDA/ 【宮崎タケシ氏】 1970年、前橋市生まれ。上毛新聞記者を経て、2009年の衆院選で群馬1区で初当選。デフレ脱却議員連盟事務局などの役職を務めた。ライトノベル作者というもうひとつの顔も(ペンネーム鷲田旌刀)http://www.miyazakitakeshi.jp/ 【田中美絵子氏】 1975年、金沢市生まれ。会社員、添乗員、議員秘書などを経て、2009年衆院選で、「小沢ガールズ」として石川2区より出馬。小選挙区では落選するも比例で復活当選。先の選挙では東京15区へ国替えし出馬するも落選。http://www.tanakamieko.jp/ <構成/鈴木靖子 撮影/山川修一>
https://nikkan-spa.jp/382123 飯田:田中さんは一期目、国会の場で活動してみての手ごたえというのは如何でしたか? 田中:そうですね。委員会で大臣に質問し、大臣が理解をしていただければ、いい答弁が返ってくる。これは与党の強みであり、実現できる部分は少なくないという経験はいくつかさせていただきました。例えば、社会保障と税の一体改革に関する特別委員会で人工乳房の薬事承認と保険適用の要望を小宮山大臣に質問させていただき、委員会終了後、大臣から「田中さん、いい質問をしてくれてありがとう」と声をかけていただきました。そして、この件については、昨年、薬事が通過いたしまして、実際に一歩、進めることができました。 宮崎:でも、それはある意味、政権与党、政府の機能として当たり前のこと。当たり前のことなんだけれども、もし大臣が違ったらどうなっていたかということです。民主党って、あまりにもトップダウンの党なんですよ。 飯田:しばしば、民主党内の意思決定の過程と仕組みについては、問題点が指摘されるところですよね。どこで何をしたら「党としての決定」と言えるのかがわからない。これでは協議ができないとこぼす自公の政治家は少なくありませんでした。 池田:党内の政策意思決定のプロセス、手続きが不十分なんですよ。それは皆がそう思っていて、途中で改善案を両院総会などで提起されたがそのままになってしまった。 宮崎:自民党には総務会があります。総務会は、いわば派閥親分が集合するような会で、反主流派も参加し、全会一致を原則としています。有力者たちがネゴし、さまざまなバーター取引をして互いに納得する。激高し総務会の場で席を立つなんてシーンもしばしば報じられますが、それも含めての伝統芸能。賛成の人しかいなくなったところで全会一致となるわけです。 ところが民主党の場合は、「官邸主導」とか「強いリーダーシップ」と言っていたわけですが、鳩山政権のときは、ヒラの議員が発言する機会はほとんどありませんでした。政策会議というものがありましたが、そこでの発言は言いっぱなしで考慮されることもない。政府主導の会議が開かれたりもしましたが、そこで発言しても聞きおくだけで、別に誰に意見をすればどうなるのかもわからない状態でした。 それは、菅政権、野田政権となるにつれて改善されたけれども、結局、なにかというと「マニフェスト」の存在なんです。鳩山政権時には「マニフェスト」という金科玉条があった。民主党議員皆、「マニフェスト」に納得して選挙をし、政府はその技術論を詰めているのだからつべこべ言うな、ということです。しかし、次第に、その「マニフェスト」の実現が厳しくなって、「だったら、俺らも議論に加えろよ」となったわけです。 それでも、その転換が不十分で、金科玉条がなくなったにもかかわらず、「官邸主導」の看板は下ろせなかった。 飯田:民主党にとっての唯一の印籠であった「マニフェスト」を失ってしまった。そして、マニフェストと異なる政策が主流派の権限で決めるようになった。こうなると、そのエンパワーメントの根拠がわからない。なぜ決まったのかわからないのに、ついて来いというのは難しいですよね。小沢さんは「それでは従いようがない」となって出たわけです。代表者が小沢一郎氏だったので、「小沢悪い」と言い続け、外に追い出すことができたわけですが、これが仮に小沢さんでなかったら、どうやって排除したんでしょうね。 荻上:たまたま、センターに攻撃できる人がいたから、「ウミ出しをすればいい」という話に回収されてしまったと。 飯田:とはいえ、田中さんのおっしゃるように、トップダウン中心だったということは、民主党はもっと大胆な政策を打ち出すチャンスがあったとも言えます。 荻上:でも、調整機能がないという話だから、そこでまた「リーダーシップ」論を繰り返してしまうと、空虚な結果になりそう。そもそも調整機能がないために、安全運転しかできないということもある。その例として、なぜ民主党内で「脱デフレ」がマジョリティとならなかったのかを、ひとつのサンプルケースとしてお話しいただけますか? 宮崎:「リフレ政策」という意味では、池田先生と私はずっと活動してきたわけですが、やはり、トップダウンの党だから、トップの人が「リフレは正しいことではない」という考えだったからですよ。 池田:今、与党がやっている金融政策とほぼ同じ内容を私は2010年の参院選のマニフェストに盛り込むべきだと主張し、いいところまでいったんですよ。が、最後の最後にダメになってしまった。トップの側近の長老が歴史を誤解しているような人だった。高橋是清が戦後のハイパーインフレを起こしたって言う方だったから。 飯田:1936年に亡くなった人が、1945年にハイパーインフレを引き起こしたって、ものすごいオカルトなんですけどね(笑)。 宮崎:我々の実力不足としか言いようがありませんが、首脳部の数人が頑なだと、党全体の大勢がどうあっても動かないわけですよ。同時に、リフレ政策については、「官僚政治」の話とも無関係ではありません。そもそも財務省的感覚に金融緩和への嫌悪感があります。それに加えて、霞ヶ関一丸となって消費増税を実現させるという流れの中で、増税の障害となりうる金融緩和はやるべきではないという意思があったわけです。 野田政権終盤になって、前原さんらの金融緩和に積極的な発言が目立ち始めたのは、霞ヶ関の本懐だった消費増税が決まり、くびきが取れたので、「少しは好きにしていいよ」って感じになったからではないでしょうか。 ⇒Vol.4『民主党執行部は「大本営作戦家」!?』に続く
https://nikkan-spa.jp/382198 【池田元久氏】 1940年、神奈川県生まれ。NHK政治部記者を経て、1990年の衆院総選挙で、始めは無所属、途中より日本社会党公認として出馬し初当選。1993年に僅差で落選。社民党を離党し、1996年、民主党の結党に参加する。1998年の金融国会を主導。菅内閣では財務副大臣、経済産業副大臣を務める。民主党デフレ脱却議連会長。http://www2u.biglobe.ne.jp/~IKEDA/ 【宮崎タケシ氏】 1970年、前橋市生まれ。上毛新聞記者を経て、2009年の衆院選で群馬1区で初当選。デフレ脱却議員連盟事務局などの役職を務めた。ライトノベル作者というもうひとつの顔も(ペンネーム鷲田旌刀)http://www.miyazakitakeshi.jp/ 【田中美絵子氏】 1975年、金沢市生まれ。会社員、添乗員、議員秘書などを経て、2009年衆院選で、「小沢ガールズ」として石川2区より出馬。小選挙区では落選するも比例で復活当選。先の選挙では東京15区へ国替えし出馬するも落選。http://www.tanakamieko.jp/ <構成/鈴木靖子 撮影/山川修一>
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