更新日:2022年06月29日 10:22
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インドにある漫画『ONE PIECE』の街で思ったこと―― 小橋賢児「そこには日本より“豊かな”生活がある」

2015年の夏、日本中でもっとも熱かったダンスミュージックフェスティバル「ULTRA JAPAN」は、一人の男の熱狂から始まった。周囲の反対を押し切って開催したイベントは成功し、巷間に伝導したころ、その男はバックパック一つでひっそりと旅立つ。 小橋賢児【僕が旅に出る理由 第6回】 旅は今も現在進行中なので、このコラムを書くにあたってはiPhoneで撮った写真を頼りに記憶を辿って書いている。 思えばインドにくる前には色々な事を想像し、また様々な心配もされたが、来てしまえば、僕らの日常と同じでそこに現実があるだけだ。 もちろん異国の地では危険はないとはいえないが、僕らが普段生活しているのと同じで、彼らもそこで生活を送っている。 よく心配されるテロやレイプ事件などはもちろんしょっちゅうあるわけではなく、日本の国土の11倍もあるインドという国で起きた一部の事件が海をわたりクローズアップされ、それが全てであるかのような報道でその国を判断してしまうのは、いかがなものかと考えさせられる。 同じく日本においても犯罪や事件というのは常にどこかでおこっていて、それを他の国の人が聞き、日本人の全てであるかのようにとらわれたらどう思うか。今一度情報の取り方というのを考える必要があるのではないかと。 という事で、現状のところそんな心配はなんのこと、素晴らしい景色や人々と出会いながら旅を続けている。(一部の商売じみたインド人をのぞいては…w) ただ、旅の道中で出会った美しい景色をSNSなどにUPするとそれもまた全てのようにとらわれてしまいがちだが、現実というのは泥臭い日々との表裏一体にあったりする。 ジュナガール、アメーダバードを後にして、かれこれ14時間くらいのバスの旅がまっていた。 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1062357 寝台バスとれた席が寝台バスの下段で外の景色が全く見えない上に灯もないのでキャンプ用のヘッドライトを照らしては本を読み、たまに長く停車しているのを見計らって空気を吸いに外に出る。 慣れないヒンディー語に戸惑いながらも何とかわかるチャイやターリーをひたすらオーダーしたり、一見窮屈そうなこんな旅も慣れると不思議と悪くないのだ。 フカフカのベッドや暖かいシャワー、調和のとれた味わいのあるご飯。そんなものからはほど遠くはあるが、だからこそありがたみも身にしみる。 もちろんお金をだせば、ここインドでも似たような生活を選ぶ事はできるが、それではその土地のもっている本当の魅力を味わう事が出来ない。そして新たな自分の感覚に気づくことも遠くなってしまうだろう。 次なる街はラジャスターン州のジョードブルという街。 ここは漫画『ONE PIECE』に出てくるアラバスタ王国のモデルにもなったと言われる街であり、青々として住居が広がる景色にブルーシティーとも呼ばれている街だ。 バスが到着すると、さっそくリキシャによる客引き合戦がはじまっていた。こういう時に外国人は格好のカモになりやすいので必ずといっていいほどふっかけられるのだが、この交渉が毎度面白いので、最初の交渉には絶対乗らないようにしている。 案の定いきなり300ルピー!という声がした。日本円で約500円…! おそらく日本のタクシーの初乗りより安い!とか思って払ったバカがいたのだろう……ありえないので完全に無視。するとすぐさま150! それも無視 、すると100…80…と一瞬で3分の1以下まで落ちるではないか…それでも無視をつづけ、歩き始めると、、、「では一体いくらならいいんだ?」と聞いてくる。 そこで10ルピーとつぶやく。 リキシャの男達も何をいってるだ?とあきれた顔でみてくるのでならいらないとスタスタ歩き出すと、後ろからじゃぁ70,60,50…と今にも意気消沈しそうな声でいってくるので、では間とって30ルピー!これが無理なら歩いていく!と強気でいったら、ついに観念したようでOK OKと結果10分の1で交渉が完了した。 というか、ローカルのインド人はどうせ10ルピーくらいだろうから、はじめから30ルピーなら乗ろうと思っていたのでよしとしよう。 リキシャの運転手もちろんリキシャの運転手の仕事は客を乗せるだけではなく、宿を案内して決まれば手数料が裏で入る仕組みになっているので客を乗せてからも必至だ。 宿は決まってるのか? どういうところに泊まりたい? いいとこ知ってるぞ。 全てみて気にいらなければ断る事も出来るが、心情的に外国人はなかなか出来ないこともわかっている。それを見越してこちらも色々条件をだして連れていってもらう。 今回の男はなかなか物わかりが良い方でピタリと好みの宿に連れていってくれた。目の前にはメヘラーンガル砦がどーんと見渡せて、値段も600ルピーとリーズナブル。部屋はまあまあではあるが、今晩の宿はこれでよしとした。 大抵の街にはOLD TOWN(旧市街) とNEW TOWN(新市街)があるんだけど断然OLD TOWNの方が雰囲気も情緒もあって面白い。しかし、高級ホテルは大抵NEW TOWNにあるので、どうしてもOLD TOWNに行くのが観光的な感覚になるのでちょっと勿体ないとも思ってしまう。 とりあえずは長いバスの旅もあったのでシャワーを浴びて街へ繰り出した。ここラジャスターン州は西に広がる広大な砂漠の入口あたりとあって、1月であれど日中はかなり暑くなるし、夜はぐんと気温が下がる。北に登ってきたはずなのに気温があがるとなんか違和感もあるが、雰囲気は少しだけワンピースな気分になれるのは確かだ。 クロックタワーや城塞などところどころに漫画で見たような場所を発見でき、作者がここにきたのかは不明だが、この地への旅がイマジネーションを産んでいたとしたらそれは素敵だなぁっと思いながら街を歩いた。 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1062370 果物を売る人 服を売る人果物を売る人、チャイを売る人、服や靴を売る人、放し飼いの牛や犬達、彼らにとっては日常の出来事なのだが旅行者にとっては全てがフォトジェニックでついつい写真を撮りたくなってしまう。 微笑む少女街角で遊ぶ子供達も照れ屋だけどどこか人懐っこく、その笑顔は都会の喧噪からの疲れを癒してくれる。 メヘラーンガル砦に登って街を見下ろすと、なるほどこれがブルータウンと言われるゆえんか!と納得するほど眼下には青い建物が密集している。 聞くところによると害虫駆除のために建物を青く塗ったのが始まりだそうだが、それが一生に一度は見たい世界の絶景などに選ばれるわけだから、物事はどうなるかわからないものだ。 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1062362 街ブラブラと適当な観光地周りを歩いていたらアジア人らしきフォトグラファーの女性が慣れた様子で地元の人を一眼レフで撮影していたのでAre you a professional photographer? (プロのカメラマンの方ですか?) と聞いたら、違います。趣味です。と日本語でかえってくるのではないか。 僕:一人で旅してるんですか? 女性:そうです。もうかれこれ1年くらいインドを旅していて、この後は南米にいくんです。 僕:(ほう、インドはレイプ事件などのイメージで女性一人では危ないとか言われてるのに凄い度胸だなぁっと思って)一人で危険なおもいとかしてないんですか? 女性:全然!たまに変な人もいるけど基本的に慣れれば可愛いもので騙してくるインド人も意外とお茶目ですよ! 僕は少なからずとも危険を回避するためにお金は複数の場所にわけたり、一眼レフのような高級品は今回の旅では持ち歩かないようにしたりと気を抜かないように常に万全の体制で挑んだいたというのに、少し拍子抜けしてしまった。 その日本人女性は、慣れたように城壁の裏通りにはいっていき、いかにもという観光地からどんどん外れていった。こんな奥まった道いって大丈夫かなぁっと思いながらもさらに表通りからは離れていく。路上でクリケットをやってる少年達と絡んだり、チャイ屋のおじさんや野菜を売っているおばちゃんに声かけたり、それはもうまるで地元の子かって感じで振る舞っていくと、とてもナチュラルで向こうもそれに笑顔で応えていくではないか。 こうやって街の生活を眺めていると勝手に身構えているのは旅人だけで、彼らはそこで普通に生活しているし、危険や用心などという観念はむしろ勝手にこちら側がつくっているという事がわかってくる。 さらにディープなお店さらに街の奥深くに入れば、車やバイクの部品屋や電化製品のリペア屋、子供のおもちゃ屋から骨董品屋、生地の問屋まで、そこで働く人々、買い物する人々がいる。 相変わらず行き交う車の排気ガスや路上から舞う埃はあるものの、そのどれもが生活臭を匂わせ、とても貧しくて可愛そうだ、なんて感覚はこれっぽっちもおきず、むしろどこかノスタルジックで昔の日本とそう変わらないのではないか?という気分になっていった… 子供の頃、決して裕福とはいえない環境で育った僕は10歳くらいまでは戦時中から残っていた貸家で育った。 畳は抜け、台所の裏には時々ネズミが走り、お風呂は水を一度溜めてからノブみたいなものを廻して追い炊きをしなければならなかったし、両親は共働きだったのでいわゆる鍵っ子というやつで、学校が終わって家に帰ってもお帰りという言葉が聞こえる訳でもなく、二つ上の兄と二人でほとんどの時間を過ごしていた。 夕飯は朝飯の残ったものと、簡単なレシピが書かれたメモを頼りに自分達で作り、適当にテレビを見ながら親の帰りを待ち、さらに幼い頃は親が帰ってこないのではないかと心配し、外に出て大声で泣き叫んでいたのを思い起こす。 それでも母が早く帰ってくる日は美味しいご飯をつくってくれ、年に数回は父が二、三日仕込んだ特製料理も食べさせてくれた。 他の友達のようにいつも家に親がいたり、欲しいものを買ってもらえたりした訳ではないけど、そのおかげで自分の頭で考え行動する事を早くから覚えることができた。欲しいもの手にいれるために中学生で新聞配達をやったり、アクセサリー屋で内職の仕事もした。 俳優を休業しても今こうして生きていられるのも、やりたい事があったら自分で考え行動すればいいという事が染み付いているからかもしれない。 だから貧しかったことだったり、親が家にいなかった事に不満などこれっぽちもなく、大変な時代に育ててくれた親にはむしろ感謝している。そして、幸いにも子供の頃の自分には他人とを比べる物差しがそこまで備わってなかったのも、惨めだとか思わなかった理由かもしれない。 昨年、一昨年と電気もほぼ通ってないようなパプアニューギニアのある村に滞在した。彼らの暮らしは僕ら日本人と比べたら決して豊かとはいえないのだが、みんな目が綺麗でいつも笑顔で日本で暮らしている人よりもよっぽど豊かにみえた。 彼らには世界の情報がほとんど行き届いてないので他と比べるものがない、比べるものがないからこそ不満とか不幸とかって思うことがあまりないのではないかと。 同じくここインドの一般の生活を垣間みると、一見不便そうな事や貧しそうに見えることが実はそうでもないのではないかと思えてくる。早いうちに家庭をもち、生涯の時間を家族と共に生きるために費やす。インドには未だカースト制度が一部根付いていて、産まれながらにその身分が変わる事はないとも言われてるので他を望む事がないのかもしれないが、家庭内暴力事件が絶えない日本よりよっぽど自然な家族のあり方をしているようにもみえた。 一方で観光地なんかにいると商売とはいえ、いかに観光客からぼったくろうかを競い合い、時には商売人同士で衝突し、我々旅人にも無情な態度でせまってくる輩もいる。 そのおかげでこの国が大嫌いになる人も少なくないが、自分たちのような生活基準の違う旅行者の介入のせいで欲望を産み、競い合う事を覚えてしまったのではないか、と少し罪悪感を感じてしまった… 少し話はそれるが、スタンレーキューブリック監督の名作『2001年宇宙の旅』の冒頭のシーンで、まだ戦う事を知らない猿達は敵に攻撃されてもなす術もなくやられてしまう。ある日、人類より遥かに高度に進歩した贈り物モノリスによって影響をうけた猿達は死骸の骨を武器として使用し、相手を攻撃することを覚えてしまう。そして、敵対する同種の類人猿を撲殺しその骨の武器が空に投げられると、その骨が21世紀の宇宙船(核兵器ともいわれている)に変わるという人類の進化を、わずか15分くらいで見せる非常に印象的なシーンがある。 余計な解説やセリフのほとんどないこの映画は受け手に様々な事を考えさせた。 映画が公開された1960年代後半~70年代前半はベトナム戦争でそれまでの米国のイメージが威信ごとくずれさり、多くのものが自由と平和を訴え、それはLOVE&PEACEというヒッピーの思想をも産み出した。 しかしながら、悲しくも戦うという競い合いがあって人類の進化というのがあったのは否定できない。決して戦いを肯定的に思っている訳ではなく、おそらくキューブリックは平和を訴えるのは簡単だが、戦う前の猿達は平和という価値も知らなければ、戦いの歴史がなければ今のような人類の進化というものはそこにはない。平和を訴える全ての人々が、自分のもっているものを他人に今すぐ平等に分け与えるか、原始時代の猿達のような生活に戻れるならまだしも、その戦いの歴史なしには僕らが普段生活しているものは何もなかったのだという矛盾点をこの冒頭で考えさせたかったのではないかと思う。 同じく原発反対を訴え、その反対運動には電車を使い、電気を使い情報を交換しているのだ、という矛盾を忘れてはいけないと思う。 こんな事書くと、お前は原発推進派かとか目くじらたてて言ってくる人もいるが、はっきりいって原発も戦争も反対だが、ただ盲目的に反対するのではなく、物事の本質は何なのかを考え、エネルギーをもっと他の良い方向に使うことも出来るのではないかと思う。 このように進化の過程でおきるズレや矛盾というのは別々の感覚が介入し競い合う事で起きてしまう。平和だった街に生活基準の違う旅行者が介入すれば、その中で摩擦がおき、良くも悪くもそこでの人々の生活は変わってしまうのだ。 騙そうとする商売人を安易に否定するだけではなく旅している側もそれらに気づき気をつけなければならないとおもった。 話を旅に戻そう。 そうこうしているうちに街のずっと奥にある裏路地にある小さなゲストハウスについた。 日本人女性:ここがわたしのゲストハウスでここがわたしの部屋。 宿とはいえ女性の部屋を見させていただくのは少々気がひけるが小さな部屋だがとても居心地の良さそうな綺麗な部屋だった。そこには他にも長期滞在の欧米人などが数名宿泊していた。 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1062390 宿泊者たちと二階のカフェではボブマーリーや60’s年代のロックなども流れ、僕なんかが泊まっているゲストハウスなんかより、よっぽど歴史とカルチャーを感じる場所であった。しばらくすると宿の主人が帰ってきて、今日は知人の結婚式だ! 良かったらいみんなで一緒にいかないか?と宿泊者に声をかけていた。 僕は宿泊者でもないしとちょっと遠慮していたら、その日本人のコが彼もいっても平気?と聞いてくれた。もちろん祝い事なんで問題ないよ!といってくれてこんな展開もあるものか、とその流れに乗らせていただく事にした。 異国の地で、多国籍の人々とギュウギュウに詰め込まれたリキシャに乗り、ガタガタの夜道を走っていく。こんな出会いでもないとなかなか経験できない光景に、これぞ旅って感じがした。 結婚式会場リキシャで走ること40分、会場に到着したのは夜の7時すぎなのだが、まだ人もまばらで本当に結婚式やるのか?って感じだったけど、結婚式自体は一日ではなくすでに何日かやっていてみんなゆっくりやってくるそうなのだ。 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1062395 「待っている間、ドリンクを飲んだりご飯食べたりしていていいよ」とゲストハウスの主人が言うので、遠慮なく会場を探索することにした。日本での結婚式はというと事前に出席を申しこんで受付で祝い金を渡して決められたテーブルに案内されるのが普通だけど、ここは祝い金はおろか特別チェックもされない。 おもてなし入ろうと思えば誰でも入れちゃうあげくに、食事やドリンクも全て新郎新婦からの振る舞いで無料だというのだ。かなりゴージャスな内容で肉を食べないヒンドゥー教だけあってベジタブル中心ではあるが、全ての種類のインド料理が網羅されてる感じで二階の奥まったところではアルコールまで提供されていた。 音楽は基本はインディアンソングなのだが、たまにこれは完全にEDMではないか!というアゲアゲなものまで流れて結構なんでもありだった。 新郎新婦が登場するとまるでバラエティー番組の演出かのように舞台の両脇から火花があがりエレベーターのように舞台に乗った二人が上昇する新郎新婦の登場もちろんそれに拍手喝采もするのだが、大半の人々は自分達のトークとご飯に夢中で全く気づいてもいない。日本のようにきちんとしきたりを持ち、一体感のあるような感じは皆無であった。 もしかしたら結婚式といっても二次会みたいものだったかもしれないがお客さんが楽しんでいるのが一番っていう理解なんだろう、みんな自由きままな感じで、みんな終止楽しそうで幸せそうだったのは間違いなかった。 宴の後半になると普段飲まないお酒をその日だけはちょっとだけ飲んだ一部のインド人が開放的になったのか、日本人が珍しいからか話かけてくる人や写真を求めてくる人なんかが結構いて、なんか遠いと感じていたインド人との距離が急に縮まった気がした夜だった。 そして、その日を機に旅の出会いや、現地の人の生活に入っていくのが少しずつ楽しみになっていった。 小橋●小橋賢児(こはしけんじ) 小橋賢児俳優、映画監督、イベントプロデューサー。1979年8月19日生まれ、1988年、芸能界デビュー。以後、岩井俊二監督の映画『スワロウテイルバタフライ』や NHK朝の連続小説『ちゅらさん』、三谷幸喜演出のミュージカル『オケピ!』など数々の映画やドラマ、舞台に出演し人気を博し役者として幅広く活躍する。しかし、2007年 自らの可能性を広げたいと俳優活動を休業し渡米。その後、世界中を旅し続けながら映像制作を始め。2012年、旅人で作家の高橋歩氏の旅に同行し制作したドキュメンタリー映画「DON’T STOP!」が全国ロードショーされ長編映画監督デビュー。同映画がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭にてSKIPシティ アワードとSKIPシティDシネマプロジェクトをW受賞。また、世界中で出会った体験からインスパイアされイベント制作会社を設立、ファッションブランドをはじめとする様々な企業イベントの企画、演出をしている。9万人が熱狂し大きな話題となった「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクターも勤めたりとマルチな活動をしている。
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