インドのスラムで得たものとは? 小橋賢児「僕が俳優を休業したもう一つの理由」
2015年の夏、日本中でもっとも熱かったダンスミュージックフェスティバル「ULTRA JAPAN」は、一人の男の熱狂から始まった。周囲の反対を押し切って開催したイベントは成功し、巷間に伝導したころ、その男はバックパック一つでひっそりと旅立つ。
【僕が旅に出る理由 第4回】
排気ガスが充満する街の匂いは、排ガス規制がされてなかった子供の頃を想いだすようでどこか懐かしささえ感じた。
運転は乱暴だが軽快に街を走るのがあまりにも気持ちよかったのでリキシャのドライバーには提示額に少しチップを乗せて支払ってあげた。
ところが、お礼どころか現金をバッと手にとるとそそくさと次の客をとるための戦いが始まっていた。彼らにとってみたらお礼をいって相手が喜ぶ見返りよりも目の前の現実の方をどう生き抜くかの方がはるかに大切なのだ。
彼らとは状況はまるで違うが、目の前を生き抜かなくていけないのは旅している僕も一緒だ。まず駅に着いたとしても、切符の買い方もわからない。これがどこ行きでどこで降りたらいいのかもわからない。
芸能界にいた時は、マネージャーが付きっきりの芸能人に対して切符の買い方もわからないの?って揶揄される事をよく目の当たりにした事もあったが、まさかこの歳になって自分が切符の購入の仕方がわからなくなるとは…
自動券売機でもあれば、何とか購入に辿りつけるのだが、全てアナログな上に窓口が沢山あって、どうもそれぞれに目的が違うらしい。各窓口が長蛇の列でいちいち確認もとれないのでとりあえずあて勘で並んで何とか切符の購入まではできた。
さて、今度はどの電車に乗ればいいのか?
電車に掲示されている行き先や構内放送は全てヒンディー語だし、さすがに勘で乗ったらとんでもないところにいってしまいそうで恐ろしい。言葉が通じそうで嘘をつかなそうな人物を吟味し、ようやく育ちの良さそうな若者をみつけることができた。勘は的中し、彼は綺麗な英語を話し、その列車のホームまで案内してくれた。
鈍臭いなぁって思う方もいるだろうけど、インドで道を尋ねるとその場所を知らなくてもとりあえず答えてしまう人が多いらしく、まともに言う事聞いてしまうととんでもない目に会うので聞く相手や相手の反応が怪しいものでないかきっちりみておく事が大事なのだ。
そして行き先の列車を見つけたのはいいが、どう見ても乗客が列車のドアからはみ出てる。というかドアがない。
日本のラッシュ時も凄いとか言われてるが、それどころかそもそも人が完全に列車からはみ出している。
ここはインドだ、とにかく気持ちひるまずにそのおしくらまんじゅう状態の列車に無理やり乗り込む。何とか乗り込めたはいいが、これだとドアからはみ出た状態でハコ乗りになってしまう…と思うのも束の間、列車は走りだした。
しかし、なんとその上にさらに駆け足で人が乗り込んでくるではないか。
ウソでしょー?と思いながら器用に列車の外側に腕をかけ、僕らを強引に押し込むと半身が完全に外に出た状態で列車は走り出した。圧死寸前状態ながら、隙間から他の車両側もみるとここだけが特別じゃないことがわかった。
インド恐るべし…
自国の常識が通用しない異国を旅することで目の前を生き抜く力というのはこうやって鍛えられていくのかもしれない。
何とか目的の駅まで到着し一先ずホテルにチェックインした。
プールのついてるホテルだったので久しぶりにと思ったが街の排気が凄いのとゴミにたかるカラスの集団がそこらじゅうに飛んでいて、のんびりプールでって感じでもなかったので、まずは、現地での携帯とインターネット環境を整える事にした。
一応会社を経営している身なので旅をしているからといってもさすがに仕事をしない訳にはいかない。3か月くらい完全にオフりたいという気持ちもあったが、むしろインターネットなどのテクノロジーのおかけで旅しながらの仕事も可能になっているのだから最低限の環境は整えるのは筋だと思った。
近しい環境やコミュニティーで仕事をしあっている日本ではとにかく会って仕事するのが常識みたいになっているが、海外では打ち合わせするにもそもそもお互いの場所が離れている環境なんかはザラにあって、本当に必要な場合意外はスカイプで会議したり、映画の編集でさえLAで編集しているものをスイスにいる監督が編集画面を共有しながら作業していたりもするくらい、インターネットをうまく使いこなしている。
実際、僕らがULTRA案件でマイアミと仕事もするのも基本はメールと電話が主軸で大切な時だけは現地に出向いて会って打ち合わせをする。
その時は本当にその場で解決したい内容なので、失敗することのないように事前にしっかりと打ち合わせ内容をシュミレーションする。限られた時間の中だからダラダラ打ち合わせはしないし、双方が明確な目的を持っているので案外この方がうまく事が運んだりする。
実際、日本であってもこのスタイルになりつつあり、LINEグループとメールでほとんど仕事をしているのも事実で、おかげでLINEのグループはゆうに100を超えていたりもするのだけれども。
ということで、まずは携帯をゲットといきたいが街中のいたるところに携帯が売っているのはいいが、どれが本物でどれが偽物か見分けもつかない。
この際何でもいいのだが、テザリング出来るものを手にいれたいがテザリングという機能をあまり使っていないようで、店員は全く理解してくれない。
様々な方法をつかって説明をしてようやく使いにくそうなスマホを購入したはいいが、今度はSIMを購入するのに、パスポートのコピーやら証明写真やら、インド人の保証人的な連絡先までいる的な感じで、これがVisaの申請ほどではないがなかなかややこしい。
結局、証明写真を撮りにいったり、インド人の友人に連絡とって保証人になってもらったりなんだかんだ半日くらい費やしてしまった。
翌朝、ホテルをチェックアウトして、ヴィパッサナーで出会った人の家に向かった。場所は一見辺鄙なところにあったが見晴らしの良いマンションの最上階に住んでいてどうやらインドではちょっとお金持ちの家のようだった。
聞くところによると、彼は国際ロータリークラブというグローバル社会奉仕連合団体の人であった。そして、10代の息子がいて、昔ブラジルで日本人との文化交流をしていたので日本人と聞いてすぐさま興味をもってくれたそう。このありがたき導きに感謝して2泊だけお世話になることにした。
部屋に入って窓の外を眺めると遠くにムンバイ(ボンベイ)のビル群が立ち並び、眼下には湾になった海と船が何艘も並んでいた。そして、ビル郡とは明らかに似つかないボロボロの家達がそこに密集していた。聞くところによるとそこは漁師の集まるスラムだという。日本でスラムときくとどうしてもちょっと危険なイメージをもってしまうがどうもそうではないらしい。
⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1052258
そうだ、君はスラムドックミリオネアを観たことあるか?
もちろん。
だったらそこの舞台にもなったスラムツアーでも見てきたらどうだ?
スラムツアー?そんなものがあるのか…
ものはためしだと思い、行ってみる事にした。
ツアーガイドとの待ち合わせのために電車で向かい目的の駅に降りた。事前にイメージをしてるからかわからないが、駅を降りた瞬間からちょっと違う空気というかそこにいる人種が違う感じがした。別に怖いとか怪しいとかそういう感じではなく、ただ人々の放つエネルギーが街のものとは明らかに違っていた。
その様子をぼっとしながら道を渡ろうとしたとき、突然あきらかにくる方向からじゃないところからバイクがぶつかってきた!
あぶな!っと言おうとしたら、むしろお前があぶな!って感じで逆ギレしてきた…
仕方ないなぁっと思ってたところで一人の若い青年がやってきた。見た目は随分若いがどうやら彼がツアーガイドらしい。本来は団体でいくらしいが、その日は人が集まらなかったらしく客は僕一人だという。
今起きた話をいうと「インドでは人より車優先だから道路にいる限り四方八方絶対気を許したらだめだよ! ちなみにインドの乗り物に大切なのは、1にグッドクラクション、2にグッドブレーキ、3にグッドラックって言葉があるくらいだから!」と、鼻でちょっと笑いながら説明してくれた。
しかしながら、その三拍子は見事にはまるくらいインドの運転は荒れ狂っているのは確かだ…
ガイドは想像していたよりもだいぶ若かったのが、彼はこのツアーを数えきれないほど行ってるらしく、流暢な英語と慣れた口調でそのままツアーの説明もしだした。
OKというところ以外は写真を撮らないほしい。ここに住んでいる人は地方から一定期間出稼ぎにきて、ここの仕事に誇りをもっているからリスペクトした目でみてほしい。その後の彼の説明は聞き取れないくらい早口なのだが、その言葉が呪文のようになって次第に景色と同化していった。
狭い路地を人間くらいの大荷物を抱えて移動している者、カンカンと鉄のくずをひたすらたたく男達、器用に何かの部品をつくり続ける人々。中にはジーンズや革製品の製造工場などもあった。
そこら中で工場の鉄くずと埃が舞い、とても空気がいいとは言えないのだがとにかくここがスラムだという事を忘れてしまうくらい無駄のない働きっぷりに関心させられてしまった。
中には学校もあったのだが子供達はゴミくずやコンクリートの破片が散らばった校庭の上を平然と裸足でクリケットをしている。僕が裸足は危くないか?と、ガイドの男に言うと僕もここの育ちだから子供の頃裸足でやってたよ。
ほら、みてこの壁のペイント。 僕はラップとグラフィックのアーティストでこのグラッフィックは僕が書いたんだよ。
そして、携帯を取り出し音楽とともにオリジナルのラップを即興で聞かせてくれた。
そのスラムの景色と鋭い彼のラップの響きはどこか懐かしく昔の記憶を蘇えらせていった…
時代は1990年代中盤、バブルが崩壊してDCブランド、ディスコムーブメントのカウンターカルチャーからか、日本の若者の間では空前のストリートファション、そしてHIP HOPのムーブメントがきていた。
そのリアルな時代の流れを渋谷、原宿のど真ん中で見て育った僕は、当然のごとくストリートファッションに身をつつみ、HIP HOPを聞きターンテーブルを購入してDJに憧れるような少年だった。
そして、16歳の時に単身NEW YORKに向かった。
街角にはその憧れていたHIP HOPスタイルの男があちこちいる。さすがNEW YORK!と一瞬は思ったが、段ボールに何やら英語が書いてある。近寄るとMoney Moneyと言ってるくるので、そうかストリートパフォーマンスか何かやってくれるのか、と思いお金をだそうとすると、近くにいたおじさんが「駄目だお金なんてをあげちゃ!」と叫ぶ。
なんで?と僕が思うと「こいつらはお金もらって麻薬を買うだけだよ」と。
え?と思って持っていた段ボールを見ると。<Homeless , Give me money> と書いてある。
そして、横を見るとずらっと似たような恰好の若者たちが同じようにたむろしている。中には注射器をうって道にうなだれている若い女の子なんかもいた。憧れの光景が一瞬のうちに阿片街にでもいるような悲惨な光景に変わってしまった。
同時に僕の中で憧れていたHIP HOPの世界が、この貧困や黒人差別の中にある荒れたスラムの中から這い上がるための心の叫びなんだという事がわかってしまった。
それをぬるま湯につかった日本の若者が見よう見まねで真似したところで敵いっこないと、ある意味落胆して日本に戻ったのだった。
ムンバイのスラムで聞いたその青年のRAPも、その何かから這い上がるような魂の心の叫びのようでなんだか絶対に敵いっこない気迫があった。
僕が俳優を休業した理由がもう一つある。
日本という小さな島国ではテレビ俳優はちょっと出演しないとすぐ忘れられてしまう。そのせいか、一度出始めると1年中働きづめみたいにならざるえないのだが、そうすると俳優としてのアウトプットの量に対してリアルな体験のインプットが極端に減ってしまった。
同時期に違う映画やドラマで違った役をこなし、服を着替えるだけで性格を変えていく。次第にそれは惰性になり、ある時こんな奴にもし自分の人生を演じられたら最悪だなぁって自分で思ってしまうようになった事は俳優から心が離れていってしまった一つの要因にもなった。
スラムの青年だけではないが、恥を考える余裕もない体験をした人間が産み出す演技や歌、アートが他の人間の魂をも救う作品になることがある。
それはエンターテイメントの世界に限らず、世界中にある様々なプロダクツやサービスも誰かの魂を救っているから存在しているのだと思う。
マーケティングのデータや一部をなぞってそれなりに目先の成功や利益は産めるかもしれないが、それは本当に人の心を産み出すものにはならない。世に残っていくものとは一時だけの流行りではなくそれを創り出す人間の想いのエネルギー体がそのものに宿り、永遠に語り継がれるものではないかと。
裕福な国とも言われながらも年間3万人以上が自害しているこの国にはこの国の病いがあるが、僕は真のエンターテイメントの力がそれらを救うと信じて日々模索している。
ULTRA JAPANをやっているのも日本にただダンスミュージックのシーンを流行らせたいとかではなく、そこにきた人々が人生の価値観が変わる体験をし、それをきっかけに海外だとか今までとは違う世界に興味をもつ事で、きっと将来日本の事を考え良くする人が産まれると信じているからだ。
僕が今後俳優に戻るかどうかとかはわからないが、このスラムの青年のように魂から伝えたいと思う経験をもっと積み、そこからくる感情に常に向き合っていきたいと思った。
約2時間のスラムツアーを終え、疲れるどころかそこにいた人々の生きる力に感銘し、なんだか逆に生きるエネルギーをもらった気がした。
ただ、あのスラムでみた人たちと、高級車でホテルに乗り付ける富豪の人たちとの差はなんなんだろう。
金銭とか立場とかじゃなくて、同じ生きる者としてそれらと自分はどう違うのか、世界の善悪と貧富の問題が全てつまったようなこの街でただただ呆然で疑問にふけたのだった。
家に戻るとちょうどみんなも帰ってきていて、近くのご飯屋に連れていってもらった。
日本だったらビールで乾杯!っていきたいところだが、もちろん向かった先は完全ベジタリアンのお店でヒンドゥ教の多いインドでは外国人向けの店以外ではアルコールもおいてないし、瞑想による規律の厳しい生活もあったし、これは断酒のいい機会と自分に言い聞かせ、砂糖抜きのラッシーとターリーを注文した。そういえばまだ、今後の行き先も決めていなかったので、彼らに相談をしてみよう。
インドは15km離れたら、言葉も文化も景色も全てが違う。あれもこれもいったらとてもじゃないけど周りきれないと思うがちょうど明後日にアメーダバードというところでインド一のカイトフェスティバルがあるから行ってみればいいじゃないか?と勧められた。その場所はちょうどムンバイの北側に位置していたので、そこから時計回りにインドを一周してみようと決めた。
食事の後、そのまま近くのCST駅まで切符を買いにいった。駅といっても世界遺産に登録されている歴史的建造物で東京駅なんかより全然壮大でどうみても駅には見えないのだが、ここがムンバイと他とをつなぐ大きな拠点になっているそう。
インドもテロが厳しいのか至るところにセキュリティチェックの機械があるんだが、人が多すぎて音がなっても無視だし、むしろそのセキュリティの横を堂々と人が通っているのだから全くもって意味があるのだがなんだかわからない。長距離列車の切符は特別に外国人用の窓口が儲けられているのはいいのだが親切なのか不親切なのかわからないがその窓口だけかなり離れたビルの二階にあった。
観光客に疲れているのか、それとも自のままなのかわからないが無愛想な駅員は早く行き先と内容を言えという態度だったので、本当は色々聞きたいこともあったがとにかく翌朝の切符だけを申し込んで購入した。
こういう時に日本はなんて親切でいい国なんだって思うのだが…
翌朝、駅に到着すると外国人だからかいきなり荷物を全部調べられた。飛行場ならともかく何故駅で?と思ったが、結構外国人はやられるという事が後にわかってきた。で、あればあのセキュリティゲートももっとちゃんと活かすべきだと思うのだが…そうこうしている内に列車は走りだした。
早朝発の列車だったからか、寝台という感じでもなく、椅子が並んで割としっかりしている列車であった。たまたま割り当てられた席がど真ん中で何故か他人と向かい合せにならなきゃいけない席で足をのばすと完全に相手の足にあたってしまうし、正面を向けば完全に目の前の人と目を合わしてしまう。
意味のわからない席の配置に時折恥ずかしくもあったが、慣れない事や不便な事を心のどこかでちょっとずつ楽しみはじめてもいたのだった…
そして、列車はインドの内奥へと進んでいく……
●小橋賢児(こはしけんじ)
俳優、映画監督、イベントプロデューサー。1979年8月19日生まれ、1988年、芸能界デビュー。以後、岩井俊二監督の映画『スワロウテイルバタフライ』や NHK朝の連続小説『ちゅらさん』、三谷幸喜演出のミュージカル『オケピ!』など数々の映画やドラマ、舞台に出演し人気を博し役者として幅広く活躍する。しかし、2007年 自らの可能性を広げたいと俳優活動を休業し渡米。その後、世界中を旅し続けながら映像制作を始め。2012年、旅人で作家の高橋歩氏の旅に同行し制作したドキュメンタリー映画「DON’T STOP!」が全国ロードショーされ長編映画監督デビュー。同映画がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭にてSKIPシティ アワードとSKIPシティDシネマプロジェクトをW受賞。また、世界中で出会った体験からインスパイアされイベント制作会社を設立、ファッションブランドをはじめとする様々な企業イベントの企画、演出をしている。9万人が熱狂し大きな話題となった「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクターも勤めたりとマルチな活動をしている。
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