【特別寄稿】福島とチェルノブイリ――現場を撮り続けてきた写真家が考える「25年を隔てたシンクロニシティー」
福島とチェルノブイリ。国際評価尺度レベル7の原発事故が起きた現場である。もちろん、単純に比較対象とすることは難しい。だが、チェルノブイリの例から、福島がより良い方向にむかうためのヒントがあるのではないか。今回は、ここ10年にわたりチェルノブイリと福島の両方を訪れ、その様子を撮り続けている写真家の中筋純氏が、特別寄稿という形で日刊SPA!に書き下ろしてくれた。
昨年秋に来日したベラルーシのノーベル賞作家、スベトラーナ・アレクセビッチさん。チェルノブイリ事故当事者の表に出ない声を綿密にまとめあげた受賞作『チェルノブイリの祈り』で知られる彼女が、福島を訪問した際の言葉の一節が忘れられない。
「この状況を直視し、言葉を紡ぎ伝えていかねばならない」
原発事故の最大の特徴は、環境に放出された放射能が長期にわたって物理的、社会的に影響を及ぼし、それらが可視化しづらいことから被災地域の周辺から時間の経過とともに記憶の風化が始まる点だといえる。震災と東電原発事故から6年を経て、アレクセビッチさんの言葉は我々が今後取るべき態度や行動を暗にほのめかしているように感じる。
チェルノブイリと福島。同じ国際評価尺度レベル7の事故は25年の時間と約8000キロの距離を隔てた時空間で起こったものだが、果たしてその後の足跡はどうだったのか? 復興論議が主流を占める中において、時代も国体も違うチェルノブイリ事故との状況比較はバイアスがかかった捉え方で、いわば復興に水を差す後ろ向きのアクションであると指摘されることも多いが、参考にすべき点は多いのではないだろうか?
⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1300111
筆者はここ10年ほどチェルノブイリに、震災後は福島浜通りの被災区域に通い、移り変わる現地の風景を記録してきた。写真はどうしても断片を記録する性質があり、撮影者の意思により全体のイメージを誘導してしまいがちである。だが両地の風景と向き合っていくと原発事故後に横たわるまぎれもない普遍性のようなものが否応なしに目に飛び込んでくる。それは事故をきっかけに据えられる時間軸、25年を隔てたシンクロニシティーともいえる空間の広がりだった。そこにはとても断片では記録できない避難区域で暮らしていた普通の庶民の日常がその時のままにフリーズされた光景があった。
⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1300113
民俗学者の故・宮本常一氏はお弟子さんたちに、初めて訪れる場所はまず高い場所に行って全体を俯瞰しその土地の特徴の概要がつかむ重要性を説いた。その言葉通りチェルノブイリ原発に隣接する原発都市プリピァチ市の高層アパートの屋上に登り、原発立地町の大熊町の名もなき丘の中腹から浜通りを俯瞰する。奥に大平原、大洋と地理的な要素は異なるものの、原発を中心に4キロほど離れたところに街があり、その街が今も住民がいないという現実がダイレクトに目に飛び込んでくる。
福島とチェルノブイリのシンクロニシティー
『かさぶた 福島 The Silent Views
』 福島第一原発周辺街の5年間を、約120枚の写真とともに振り返る。 |
『流転 チェルノブイリ 2007~2014』 日本で唯一「その後のチェルノブイリ」を撮り続けてきたカメラマンによる集大成! |
ハッシュタグ