【特別寄稿】福島とチェルノブイリ――現場を撮り続けてきた写真家が考える「25年を隔てたシンクロニシティー」
原発事故をきっかけに我々は時間軸を直視せざるをえなくなったのかもしれない。そもそも放射能は地球という惑星が約46億年前に誕生した時の記憶の封印ともいえる。いわば「起こされた寝た子」ともいえる環境に放出された放射能は、約700万年の歴史しか持っていない我々人類にとって時間概念を狂わす存在であるといっても過言ではない。汚染の指標となるセシウム137の半減期は30年、消滅にはその5倍以上の時間がかかるといわれている。チェルノブイリ原発の核燃料の取り出しはあと100年近くかかるともいわれ、フィンランドの高レベル核廃棄物最終処分場「オンカロ」ではガラス固化体にした廃棄物の安全性を10万年後を視野に議論されている。10万年といえば人類の足跡をたどればネアンデルタール人から現代人までの時間だ。果たしてネアンデルタール人が我々現代人の姿を想像していたであろうか? そして我々が10万年後の人類の姿を想像できるであろうか? これはもうおとぎ話やSFの世界である。「起こされた寝た子」が再び眠りにつくまでは限りない時間と向き合わねばならない。
だが一方で6年を経て原発事故後の社会的状況は25年を隔てたシンクロニシティーが当てはまらない様相を呈してきた。徹底的な放射能封じ込めを目指し除染作業を行い、その上で残留土壌放射能の人体や環境への影響を重要視した上で区域の色分けを行い、当該住民のその後の生活権利を「国家」が「法律」で保障しようとしたチェルノブイリ事故のその後に対し、福島事故のその後は除染工事の終了によって避難住民の半強制的帰還があるのみだ。その基準とされるのは「土壌」汚染度ではなく風向きなどの気象条件によってばらつきが出やすい「空間」の放射線量なのだ。長く続く土壌の放射能汚染という原発事故の災禍の核心と向き合ったチェルノブイリの経験は生かされることはなかったといえる。
原発事故から6年が過ぎた避難区域は、今月末、来月頭にに大きな節目を迎える。富岡町、浪江町、川俣町、飯館村の5町村に策定されていた、避難指示解除準備区域(年間被曝量20mmSV/年未満)と居住制限区域(同20mm~50mmSV/年)に出ていた避難指示が解除されるのだ。対象となる住民は3万2千人にも及ぶ。
これにより街の復興が加速されると明るいニュースが連日メディアを賑わせているが、解除とともに帰還を希望している人は各町村とも10パーセント台と低迷し、その多くが50代以上の高齢者だ。帰還後のコミュニティーの存続が保てるのか不安視する声もある。
また、避難指示の解除は帰還を望まない住民にとっては賠償や住宅支援の打ち切りを意味することになる。当該区域に住んでいた人々は今年度末を境に避難者から「自主」避難者へと扱いが変わるのだ。事故以前の20倍に設定された被曝限度をもとに土壌汚染の詳細を無視した避難指示の解除に多くの人々が依然として不安を感じている現実に反して、行政側は廃炉作業の進捗や復興インフラの整備、産業誘致のビジョンばかりを提示しその現実に対してはひたすら「安全」を繰り返すばかり。原発「安全」神話崩壊後6年を経て姿を表した「安心」神話の誕生だ。
この不明瞭な神話のもとに本来なされるべき東電福島事故への真摯な検証や反省はもちろんのこと、避難者、自主避難者を含めた福島県民という当事者を始め、この事故を経験した多くの日本人というある意味での当事者を含めた闊達な議論は表舞台に出ることはなく、福島原発事故はどんどん闇に葬られていくのではないか。そしてその闇は国民の間に原発事故に対する認識のずれや温度差を生み出す。昨年から明るみに出始めた原発避難者に対するいじめ問題はその象徴ともいえよう。
震災から6年という時間を経て、チェルノブイリの災禍とともに生きてきたスベトラーナ・アレクセビッチさんの箴言をどう実践していくのか? 我々国民全体のイマジネーションが試される時がきたのかもしれない。
【中筋純】
1966年生まれ。雑誌編集者を経てフリーカメラマンに。雑誌、広告撮影と並行して産業遺構を撮影、多数の作品を残す。2007年に初訪問したチェルノブイリの光景に衝撃を覚え独自の写真表現で作品を発表。震災後は福島県浜通り地域にも通い続けている。
<取材・撮影・文/中筋純>
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』 福島第一原発周辺街の5年間を、約120枚の写真とともに振り返る。 |
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