すべてが連なるプロレス・サーガ『1984年のUWF』――柳澤健×樋口毅宏
今、プロレスはオカダ・カズチカや棚橋弘至らスター選手の活躍により再び脚光を集め、女性ファンを筆頭に若いファンが増えている。しかし、かつて栄光と挫折があったからこそ、現在の新たなプロレス人気があるのも事実だ。『1976年のアントニオ猪木』をはじめ、様々なプロレス・サーガを書いてきたノンフィクション作家・柳澤健氏。最新作『1984年のUWF』は現在のプロレスと総合格闘技を結ぶ歴史書として、新しいプロレス入門書とも言えるものになっている。『さらば雑司ヶ谷』『日本のセックス』などで知られる小説家・樋口毅宏氏は、昭和プロレスファンならわかる大小のエピソードをふんだんに盛り込んだ『太陽がいっぱい』を引退作とした。前田日明に愛憎を抱えるこむずかしいプロレスファンと自認する樋口毅宏氏が柳澤健氏に、UWFの時代がなぜ今書かれるべきだったのかを問う!
柳澤健(以下 柳澤):樋口さんもそうだけど、男の人のプロレスラーに対する愛情ってなんなんですかね?
樋口毅宏(以下 樋口):異常ですよね。橋本や三沢が亡くなったときはしばらくボーッとして何にも手に付かなかったですもん。思い入れのあるミュージシャンや野球選手や映画監督や漫画家が亡くなっても、こうまではならないだろうって。柳澤さんこういう気持ちありませんか? 僕たちはプロレスについてこんなに熱く語っていますけど。かつてロッキング・オンの渋谷陽一が評論本の中で、「音楽について語ることの不毛」という原稿を書きました。その比喩としてこういう風に例えたんです。「海に来たけど泳げない」と。
柳澤:あぁ。
樋口:「当時の渋谷陽一のロック評論家としてある種の引退宣言であり、別に渋谷はロックミュージシャンになりたかったわけじゃない」と指摘する人もいるでしょう。でもとにかく名文なんです。僕もプロレスについて語ることは、本当に悦びであるんだけど、同時に不毛も感じてしまう。だってプロレスラーからみたら、「お前らプロレスについて偉そうに語ってるけど、戦ってないじゃん、受け身取れないじゃん」って。負い目を感じますよ。プロレスラーの方が絶対偉いよなっていう。
柳澤:でも、樋口さんは昔、「書いてる人の方が偉い」って、散々強弁してたじゃないですか(笑)。
樋口:そう。キリストより偉いのは聖書を書いた人。宮本武蔵より偉いのは吉川英治。大山倍達より偉いのは梶原一騎。木村政彦より偉いのは増田俊也と言いつつも……。
柳澤:言いつつも(笑)。
樋口:エッセイストだった村松友視さんが、『私、プロレスの味方です』で、「主権は受け手にある」と表明するんですけど。やっぱり「プロレスラーになれなかった」っていう、語る側でしかない悲しみを思うことはありませんか?
柳澤:全然ないですね。すみません(笑)。
樋口:柳澤さん、語っている感じからしても、御本を読んでもそうですよね。
柳澤:全然ないですね。格闘家、たとえばボクサーだったら、相手に勝つことが目的じゃないですか。
樋口:それが全てですもんね。
柳澤:全てだから、観客がいるいないは基本関係ない。観客がいるからこそもちろんプロボクサーのプロボクサーたる所以なわけだけれども。たとえばテレビさえあれば、もしくは大金持ちのスポンサーが1人いれば、観客がいなくても試合はできる。完成されたシステムの中で、自分がどう上がっていくかということしか考えなくていいわけですよ。
すべてが連なるプロレス・サーガ
『1984年のUWF』 佐山聡、藤原喜明、前田日明、高田延彦。プロレスラーもファンも、プロレスが世間から八百長とみなされることへのコンプレックスを抱いていた―。UWFの全貌がついに明らかになる。 |
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