ハーリー・レイス『ローズ家の戦争』のあとで――フミ斎藤のプロレス読本#050【全日本プロレスgaijin編エピソード18】
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
ハーリー・レイスが待ち合わせ場所に指定したのは、カンザスシティーのダウンタウン、ブロードウェイ通りにある古ぼけたダイナーだった。
約束の時間よりも5分早くお店に現れたハーリーは、顔なじみらしい中年のウエーターとひと言、ふた言、あいさつを交わし、ゆっくりとこちらのテーブルに向かって歩いてきた。
「ここはすぐにわかったか。メシはすんだか。この店に来たら、いつもローストビーフ・サンドウィッチを注文するんだ」
ハーリーは4人がけのブースにどっかりと腰を下ろした。あいからわずドスの利いた声で、ナチュラルなカールのかかった短めの髪は“美獣”のイメージどおりだ。
ダウンタウンのすぐ近くのウエストゲートという町でちいさなアパートメントを借りて、ひとり暮らしをはじめたばかりなのだという。イボンヌ夫人との離婚裁判が終わるまでリアウッドにあるお屋敷には近づくことができない。
いったいいつになったらお金のかかる弁護士との交渉から解放されるのかわからないけれど、とりあえず裁判をスムーズにすすめるため、ハーリーは住み慣れた家を出た。追い出されたといったほうが正確かもしれない。
「ずっと昔からスーツケースひとつで暮らすことには慣れていたから、いまの生活は苦にはならない。なんでも自分でできる」
ミズーリ州オイトマンというちいさな農村に生まれ、5人兄弟の上から二番めとして育ったハーリーは、14歳で家を出て、15歳のときにプロレスの世界に入った。
ガストー・キャラスというプロモーターのもとでアイオワのサーキットをまわったあと、イトコ――ほんとうの親せきではないけれど、ずっとイトコということになっていた――の“人間空母”ハッピー・ハンフリーといっしょにニューヨークのバッファローに流れていった。旅の足はいつもヒッチハイクだった。
「旅の途中で出逢ったゆきずりのガールフレンドと結婚して、それからしばらくしてひどい交通事故に遭って、オレの……つまり、最初のワイフが死んだ。オレも左腕と右脚を折っちまって、もうレスリングができないと医者にいわれた」
「17歳か18歳のころだったかな。でも、ガス・キャラスが手術代を出してくれて、どうにか、オレの体は元どおりになった。足さえ動くようになれば、またリングには上がれると思った。1年後にはまたレスリングをはじめた。あのとき、キャラスの世話にならなかったら、いったいどうなっていたかな」
そこまで話すと、ハーリーはコーヒーのお代わりを注文した。
「かまわないから、なんでも聞いてくれ、なんだって話してやるから」
空になったコーヒーカップを左手でくるくるとまわしながら、ハーリーは大きなため息をついた。
「オレがこの世界に入ったころはな、レスリングを習わされたんだよ。オレはスタニスラウス・ズビスコのコーチを受けたんだ。いまの連中に必要なのはステロイドのボトルと、バンプ(受け身)の取り方だけだろ。昔のレスラーは、いつだって60分フルタイム闘うつもりでリングに上がっていたよ。いまそんなレスラーはいないだろ」
「オレは“世界”のベルトを腰に巻くまで15年間も前座をやったんだ。世界じゅうのリングでね」
ツアー生活をしなくなったハーリーは、知らず知らずのうちにレスリング・ビジネスを外側からながめるようになっていた。WWEのリングで起こっていることも、WCWのバックステージのポリティックス(政治面)も他人事でしかない。
「WWEの仕事がきついといったって、しょせんアメリカ大陸のなかを行ったり来たりしているだけじゃないか。オレはひとつのテリトリーに1週間以上いたことなんてなかったよ。それを30年もだ。WWEの連中が文句をたれはじめると、オレはいつもこのはなしを聞かせてやることにしている……」
「金曜の夜にトーキョーにいた。日付変更線を飛びこえて、同じ金曜の夜はセントルイスにいた。土曜の朝7時にセントルイスを発って、夜にはプエルトリコのサンファンにいた。なにをやってたかって? 60分時間切れドローを3試合やったんだ。もちろん、次の日は1日じゅう寝てたけどね」
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