更新日:2022年12月10日 18:30
スポーツ

パット・オコーナー コミスキー・パークに3万8622人の大観衆――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第13話>

パット・オコーナー コミスキー・パークに3万8622人の大観衆――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第13話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第13話は「パット・オコーナー コミスキー・パークに3万8622人の大観衆」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 ルー・テーズがアメリカのレスリング・シーンの表舞台から姿を消した数年間、テーズの“代役”をつとめたスーパースターといっていい。  アマチュア・レスリングのバックグラウンド、正統派らしいサイエンティフィック・レスリング、クリーンカットなイメージとどれをとっても典型的なベビーフェースで、アメリカ英語とはちょっとちがうニュージーランド・アクセントのおしゃべりが人気者としての隠し味になっていた。  1950年代前半は、シカゴのドゥモン・ネットワークDumont Networkが毎週土曜夜に全米放映していたプロレス中継番組“レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン”の花形スターとして活躍。  当時、もっとも美しい技といわれたオコーナー・ロール――ローリング・リバース・クレイドル(後方回転エビ固め)――の開発者としても知られる。  カナダ・モントリオールでキラー・コワルスキーを下しAWAインターナショナル王座(1954年7月21日)、トロントでロード・レイトンLord Laytonを退けブリティッシュ・エンパイア・ヘビー級王座(1956年3月29日)といったローカル・タイトルを獲得。  NWAの総本山セントルイスのキール・オーデトリアムでテーズのライバルだったディック・ハットンDick Huttonを下してNWA世界ヘビー級王座を奪取(1959年1月9日)。同王座を2年5カ月間にわたり保持した。  オコーナーの32年間のキャリアのなかでプロレス史に残る重要な一戦は、“野生児”バディ・ロジャースとのタイトルマッチだった。  1961年6月30日、シカゴのコミスキー・パークで開催されたNWA世界ヘビー級選手権は3万8622人の大観衆を動員(興行収益17万5000ドル)。  この数字は、アメリカ国内におけるプロレス興行の有料入場者・興行収益新記録となった(それから26年後の1987年3月29日、“レッスルマニア3”ポンティアック・シルバードーム大会――メインイベントはハルク・ホーガン対アンドレ・ザ・ジャイアント――が記録更新)。
次のページ right-delta
オコーナーとロジャースの試合は…
1
2
※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。

※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です

フミ・サイトーのアメリカン・プロレス講座 決定版WWEヒストリー 1963-2001

WWEはいかにして世界を征服したのか?幾多の危機を乗り越え、超巨大団体へと成長を遂げたその歴史を克明に描く「WWEの教科書」

おすすめ記事
ハッシュタグ