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パット・オコーナー コミスキー・パークに3万8622人の大観衆――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第13話>

 オコーナーとロジャースの試合は、ベビーフェース対ヒールの教科書のような名勝負だった。3本勝負の1本めはロジャースがコーナーを背にしてのカウンターのダブル・キックから速攻のフォール勝ち。  2本めはオコーナーが後方回転エビ固めで返し、決勝の3本めは、ドロップキックの連射をすかされたオコーナーが背中からトップロープにバウンドし、そのまま反転してキャンバスに落下。  ロジャースがすかさずロープサイドでエビ固めを決めた。ベビーフェースはベビーフェースらしく闘い、ヒールはヒールらしくずる賢くフォールを盗んだ。  NWA世界王座を失ったあと、オコーナーは大都会シカゴを離れ、中西部カンザスに安住の地を求めた。  その後、NWAセントラル・ステーツ地区の興行会社ハート・オブ・アメリカ・スポーツ社の株主(パートナーはガスト・キャラスGust Karrasとボブ・ガイゲルBob Geigel)となり、1969年から1982年まではNWAセントルイス地区(サム・マソニック派)のブッカーとして手腕を発揮。  1982年に“NWAの父”マソニックがプロレス界から引退後はB・ガイゲル、バーン・ガニア、ハーリー・レイスらとともにNWAセントルイス地区の共同オーナーとなった。  NWAの主流派メンバーだったオコーナーは、ジャイアント馬場と親交が厚かった。1970年代後半まで現役選手として全日本プロレスのリング上がり、大相撲・元横綱の輪島大士がプロレス転向(1986年)を果たしたときは、アメリカ武者修行中の強化コーチ、ロード・マネジャー的な役割を演じた。 ●PROFILE:パット・オコーナーPat O’Connor 1924年8月22日、ニュージーランドのレイティーヒ生まれ。ブリティッシュ・コモンウェルズ・ゲームズ(アマチュア・レスリング)に2年連続優勝(1948年、1949年)し、1950年にプロ転向。1953年にアメリカに移住。58歳まで現役選手として活動し、1982年に引退。1990年8月16日、肝臓ガンで死去。享年65。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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