テリー・ファンク “荒馬”から“生ける伝説”へ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第36話>
日本には“テリー・ファンク世代”と呼ばれるプロレスファンが存在する。
1970年代から1980年代前半にかけてドリー&テリーのザ・ファンクス対ザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャーの死闘に興奮し、テリーの引退試合(1983年=昭和58年8月31日=東京・蔵前国技館)に涙を流した、当時10代から20代の観客層である。
ザ・ファンクスはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田からスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ、ザ・ロード・ウォリアーズ(アニマル&ホーク)、ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)あたりの世代までのほとんどのタッグチームと対戦した。
1983年の引退宣言の時点ですでに39歳だったテリーを“アイドル”と定義することはできないかもしれないが、男の子のファンはテリーの感情むき出しのファイトに胸を熱くし、女の子のファンはそんなテリーの姿に黄色い声援を送った。
滞在先のホテルのロビーや空港、新幹線のホームにはいつも数百人の“追っかけファン”が待機し、全国各地の試合会場ではプロ野球にみられるような私設応援団が何グループも結成された。とにかく、爆発的な人気だった。
ドリー・ファンク・ジュニアの弟テリーは、兄ドリーの後輩としてウエスト・テキサス州立大フットボール部(1962年-1965年)で活躍後、21歳で地元テキサス州アマリロのリングでデビュー(1965年12月9日、対戦相手はスプートニック・モンロー)。
兄ドリーがNWA世界ヘビー級王者時代は、ドリーの“ボディーガード”として全米ツアーに同行し、各地のローカル団体のトップスターと対戦した。
ドリーが“鉄人”ルー・テーズとのタイトルマッチをスーパースターへの仲間入りの足がかりとしたように、テリーもまた若手時代にテーズとのシングルマッチを体験した(1969年2月14日=ミズーリ州セントルイス、キール・オーデトリアム)。
ドリーがジン・キニスキーを下してNWA世界王座奪取に成功してから3日後に実現した53歳のテーズと25歳のテリーのシングルマッチは、テーズの貫録のフォール勝ちに終わったが、じつはこの試合がテーズにとっては“NWAの総本山”セントルイスでの最後のメインイベントでもあった。
NWA世界王座はその後、ドリーからハーリー・レイス、レイスからジャック・ブリスコ――1974年=昭和49年12月2日、鹿児島でジャイアント馬場に敗れベルトを失うが、6日後の同12月8日、豊橋で王座奪回――へと移動し、テリーはドリーの宿命のライバルだったブリスコを下してNWA世界王座を獲得した(1975年12月10日=フロリダ州マイアミ)。
テリーはその後、1年2カ月間にわたりNWA世界王者として全米、カナダ、日本をサーキットするが、テリーからベルトを奪ったのは、その4年まえにも兄ドリーをチャンピオンの座からひきずり下ろしたレイスだった(1977年2月6日=カナダ・トロント)。
無名のルーキー時代をアマリロで過ごしたレイスは、ドリーの弟分であり、テリーの兄貴分のような立場のレスラーだった。
“たたき上げ”のレイスはNWA世界王座に異様なまでの執着をみせたが、レイスよりも年下のテリーはチャンピオンとしてのステータスにそれほどこだわらなかった。
ドリー&テリーのザ・ファンクスの日本における最初のメジャータイトルは、ジャイアント馬場&アントニオ猪木の“BI砲”を下してのインターナショナル・タッグ王座奪取だった(1971年=昭和46年12月7日、札幌)。
その後、猪木は日本プロレスを“除名”となり、1973年(昭和48年)にはその日本プロレスも崩壊。ファンクスは復活インター・タッグ王者として新団体・全日本プロレスのリングに再登場した(1973年10月)。
テリーの現役生活は“第1章”と“第2章”のふたつのチャプターに分類することができる。
アマリロ時代からNWA世界王者時代、全日本プロレスでの引退-カムバックまでを“第1章=荒馬テキサス・ブロンコ編”だとすると、“第2章=リビング・レジェンド編”は1990年代、つまりテリーが50代になってからスタートする。
“第1章”と“第2章”のあいだには数年間のタイムラグがあって、これはテリーが一時、俳優転向を考え、TVシリーズ『ワイルドサイド』、映画『オーバー・ザ・トップ』『ロードハウス』などに出演した時期だった。
リングの上ではそれほど大型ではないテリーがスクリーンのなかではものすごい巨体に映った。ハリウッドとのかかわりはほんのつかのまの“浮気”だった。
“リビング・レジェンド=生ける伝説”のプロローグは、NWA・WCW世界ヘビー級王座をめぐるリック・フレアーとの一連の闘いだった。
NWAクロケット・プロからテッド・ターナー・グループ体制となったばかりの新団体WCWのリングで、テリーはラフでタフな“中年のヒール”を演じた。
フレアーはリッキー・スティムボート、スティング、レックス・ルーガーらと試合をするときは典型的なヒールだったが、テリーと闘うときだけはベビーフェースに化けた。
フリーエージェントとしてアメリカじゅうの弱小インディー団体を渡り歩くようになったテリーは、かつてのライバルである“アラビアの怪人”シークの甥にあたるサブゥーと出逢う。
テリー対サブゥーのシングルマッチは10数年まえのテリー対シークのリメイクのような試合だったが、ひとつだけちがっていたことは、こんどはテリーがよれよれの中年レスラーになっていて、“シーク役”のサブゥーがそれまでテリー自身がいちども目にしたことのない前衛的、芸術的な動きをするレスラーだということだった。
“テーブル破壊の儀”“自殺ダイブ”“自虐の個人メドレー”と形容されるサブゥーのオリジナルの空中殺法の数かずは、テリーのなかに眠っていた“開拓者の魂”のようなものをめざめさせてしまった。
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