“役者”長渕剛が20年ぶりにカムバック! 俳優業を再開させた理由とは
’19年にデビュー40周年を迎えた、唯一無二のシンガー・ソングライター・長渕剛が、’20年1月17日公開の主演映画『太陽の家』で20年ぶりにスクリーンに帰ってくる。音楽活動だけでなく、かつてはドラマ『家族ゲーム』『とんぼ』などで俳優としても強烈な存在感を放った彼だが、本作では血の繫がらない子どもを育てる大工の棟梁という役を通じて、どんな表情を我々に見せてくれるのか。そして、目まぐるしく変化していく時代に何を思うのか。
――まずは今回の作品ですが、これまでアウトロー役のイメージが強かった長渕さんが大工の棟梁を演じられたのが意外でした。
長渕:大人と子どもの関係を描いた映画をやりたいという思いがあって、そこにたまたま大工の棟梁という役柄がはまったんですよ。ストーリーを聞いたときは、自分の幼いころの憧れだった大工の職人さんたちの気のいい笑顔が頭をよぎりましたね。
――見ず知らずのシングルマザーに声をかけ、一人息子の父親代わりになって彼を男に育てようとする……。主人公・川崎信吾の生きざまは自分と重なる部分がありますか?
長渕:そうですね。僕自身、60歳すぎて、子どもを3人育ててそれぞれ自立していったわけですけど、子どもたちと一緒に過ごしてきた数十年の間、“家族”っていう単位で大事なことをたくさん教わってきた。そういうものが、言葉や表情を含め今回の映画のなかでキチッと付着してるのではないかと、出来上がったものを見て思いました。
――しかしながら「男が女を守る」という信吾のセリフは、ともすると今の時代、古い価値観なのでは?
長渕:確かにこの映画のなかで表現されているのは「男が女を守る」ということなんですけど、広い目で見ると結局、女が男を守っているんです。これは古かろうが新しかろうがどの時代も同じだと思う。僕の信念とかではなく、人間の世界でも動物の世界でも、命をかけて戦うのは男だけど、守っていくのは女。母性と父性の両輪でなければ万物みんな動いていかない。それに男なんて女の手のひらで転がされてなんぼです。
風にも弱いし雨にも弱いし、転がっただけで死んじゃうような存在です(笑)。逆に女性の生命力ってのは、やっぱりすごい。その意味で女性の力というものが、この数十年で改めて問われているんだと思います。
――一方で瑛太さん演じる高史と衝突するシーンでは、拳を交えずひたすら耐える信吾の姿が印象的でした。
長渕:それはたとえ血が繫がっていなくても、我が子として育ててきたという強い思いがあるからでしょう。飛びかかってくる彼の怒りと真意が痛いほどわかる。そして彼が自ら幼いころに描いた絵を破いてもそれを大事に拾って貼り直す。父と息子の関係って温かくって悲しいです。
僕自身、亡くなった父との思い出もいっぱいありますし、長男・次男と向き合った数十年も同じ。子どもが自立していくときにやっぱりいろんな衝突が起きていきますけど、それをじっと我慢して、ただただ見守っていく。でも、傷ついて帰ってきたときはきちっと抱きしめてあげることにしてるんです。
――それが父親としての優しさだと。
長渕:いや、優しさっていうのは伝わらないものだと思うんです。恥ずかしながら優しい歌をいっぱい僕も書いてきたし、世の中には多くの“優しさ”と言われる歌が氾濫していますが、どれひとつ聴いても、自分の歌でさえも伝わらないんです。優しさって狙ってつくるものじゃないです。むしろ、てらいのない、ふとした音楽を聴いたときにわけもなく涙が出てきたりするものなんですね。
――時代とともに家族のあり方が変化していますが、それについてはどう思いますか?
長渕:僕はそう思ってないですね。あり得ないと思うんです。家族は家族であり続ける。籍を入れるとか入れないとかって形は変化していくでしょうね。僕の父と母はもう亡くなったけど、毎日ケンカばかりしてました。
戦後復興の真っただ中、安給料で母が家計簿をつけながら父のことを罵るわけです。そこから大ゲンカが始まる。だけれども、ちゃんと別れないでいてくれたものね。それはやっぱり感謝です。「もういいからおまえら別れろよ」ってグレたこともあったけど、それでも「別れない」でいてくれた。そのことが僕のなかには一つの教則本みたいになってるかもしれない。
大人と子供の関係を描いた映画をやりたいという思いがあった
形は変化していっても家族は家族であり続ける
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