野村克也の凄さを振り返る。ID野球、再生工場…奇跡の3年間
2月11日、虚血性心不全でこの世を去った野村克也さん。野村さんが球界に残した功績は計り知れない。近年では特に、ヤクルトスワローズの監督として球界に復帰してからの栄光が語られる機会も多い。
中でも、1990年のスワローズ就任から優勝までの3年間、個性豊かな選手たちを率い、それまでBクラスが定位置だったスワローズを瞬く間に強豪球団に育て上げるというストーリーに、野球ファンならば誰もが惹きつけられた。
「1年目は種をまき、2年目には水を与え、3年目に花を咲かせる」と当初から語っていた通りに、就任3年目の1992年には激戦を制し、見事にリーグ優勝を成し遂げている。
ID野球で球界を席巻し、後に「野村再生工場」という巧みな選手起用でも辣腕を振るった野村さんのヤクルト就任から優勝までの3年間の采配、実績を振り返ってみる。
監督として指揮を執った初年度の1990年、はやくも「野村イズム」がチームに浸透していることが表れ始めていた。中でも、結果としてわかりやすかったのが先発投手陣の成績だ。
チーム成績は前年を下回る5位だったものの、二桁勝利投手が実に4人を数えている。入団2年目の川崎健次郎の12勝をはじめ、ベテランの宮本賢治が11勝、人気者「ギャオス」こと内藤尚行と新人の西村龍次がそれぞれ10勝を挙げている。チームは5位という結果に終わるものの先発陣の好成績は目覚ましいものがあった。このうち、川崎と西村の両投手は翌年以降も先発の柱としての働きをみせ、黄金期を支える存在となっていく。
また打線でもテコ入れが図られている。ホームランバッターとして台頭していた池山隆寛も選手として大きく変貌を遂げた一人だ。豪快な本塁打を放ちながらも打率は2割台と伸び悩み、何より「ブンブン丸」というニックネームで呼ばれるほど三振数も毎年の様に100を大きく上回る粗さの目立つ選手だった。この年、野村監督は確実性を身につけるように指導、その結果、三振数は激減し打率.300本塁打31本、打点97と、前年までからは考えられなかった成績を残した。同様に、4番だった広沢克己も打撃成績が飛躍的に向上し、打率.317を記録、この年以後、2度の打点王(1991・1993)にも輝いている。
池山、広沢というチームの顔でもある二枚看板が初めて打率3割を記録したのが野村監督就任1年目だったことは、やはり運命的なものを感じずにはいられない。
さらに翌年の1991年には「申し子」古田敦也が捕手としてレギュラーに定着、攻守でチームを支える存在に成長を遂げている。卓越したリードとともに、セ・リーグ打率トップの成績を残す(.340)までに磨かれたバッティングの背景には野村の野球理論が叩き込まれていたことは明らかだ。プロ2年目の古田とベテラン落合博満との僅差の首位打者争いの攻防は、シーズン最終盤まで観ているものの心を震わせ続けた。
そしてAクラス入りを果たしたこの年、野村ヤクルトの猛烈な勢いが表れたのが6月の12連勝だ。若さ溢れる教え子たちにより投打が見事なまでに噛み合い、一気に首位に躍り出るほどの強さをみせつけている。今なお球団記録として残るこの当時の12連勝は、野村采配に導かれ上昇気流に乗ったスワローズの象徴的なハイライトでもあった。
就任当初の自身の言葉通り、種をまき、水を与えていた就任2年目までの間、多くの選手たちに急速に野村イズムが伝わっていくのが結果に表れていた。1991年シーズンは11年振りとなるAクラス入り(3位)を果たし、いよいよ花を咲かせる3年目を迎える。
5位に終わるも個々を光らせ続けた1年目
2年目には野村イズムを教え子達が体現、球団記録も
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