知らなくてもいいことを知ってしまった子供の冒険譚であり成長譚/田島列島・著『みちかとまり ①』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。日刊SPA!で書店員による書評コーナーがスタート。ここが人と本との出会いの場になりますように。
田島列島の新作が早くもやってきたことに歓喜している。本屋としては売上になるし、いち読者としても当然うれしいし、作者本人もそう言ってもらえて幸せに違いない。ここにニゲミチ先生(前作『水は海に向かって流れる』登場人物)がいたらこう言うだろう。デメリットが一つもない! 逆に怪しい!
田島列島の作品に共通するテーマのひとつは「罪の意識」であり、その罪は決して自分がすべて悪いわけではないのに感じさせられている、しかしだからといって自分とは無関係じゃい!と開き直るのもまた違う……というような複雑なそれである。そして登場人物たちがその罪(のようなもの)と向き合い、乗り越えたり、適度な距離感を見つけたりしていくのだが、台詞回しなどに光るユーモアのおかげか、あまり重さは感じない。ゆえに読者は物語を楽しく読み進め、しかしそこに内在する「芯」のようなものを感じさせられるため、ただただ楽しいだけの読書体験とはならないのだろう。
今作『みちかとまり』における罪の意識は、自分のせいで記憶を失ってしまった同級生がいる、というものだ。主人公・まりが8歳であることを考えると、これは非常に重い。しかもその同級生・石崎は(本人に悪意がないとはいえ)まりをいじめていたのだから、問題はより複雑だ。さらに、まりは石崎の家庭が複雑な状況にあることも、8歳の知識や経験なりに理解してしまう。加えて、今作はもうひとりの主人公・みちかが「竹やぶに生えてた子供」であり、みちかを最初に見つけたまりが彼女を「神様にするか人間にするか決める」という、重大な責任までついてくる。
田島列島作品における「罪の意識」は「知らなくてもいいこと」によって引き起こされている。デビュー作『子供はわかってあげない』では、それは血の繫がっている父親が宗教団体のトップであり、しかもその団体のお金を持ち逃げしたらしいことを知ってしまうことによって生じているし、『水は海に〜』では自分の親が不倫をしていたことがそれにあたる。それらは子供たちの責任ではない。しかし、知ってしまったからには何かをせねばならないと感じてしまうものである。
つまり、田島列島作品はすべて、知らなくてもいいことを知ってしまった子供の冒険譚であり、成長譚なのだ。もちろんそこに登場する大人たちも、不器用ながらも自分の責任を果たそうとする。そして、誰もがみな100パーセントの悪人ではないし、100パーセントの善人でもない。ゆえに『水は海に〜』で不倫当事者である父が言う「ちょっとでいいから自分のことちゃんとした人間だと思いたい」という言葉は、登場人物みなに共通する意識なのかもしれない。
『みちかとまり』が今後どのような展開を見せるのか、つまりみちかとまりがどのように冒険・成長していくのか、続刊を楽しみにしている。「私がしなきゃなんないことがあるんだ」「私じゃなきゃできないことが」と自覚したまりが七転八倒する姿は、“ちょっとでいいから自分のことちゃんとした人間だと思いたい”私たち大人の尻を叩き、あるいは、頭をやさしく撫でるのだろう。
評者/関口竜平
1993年、千葉県生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。将来の夢は首位打者(草野球)。特技は二度寝
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