「他者が持っているもの」に敏感な私たちは「自分が持っているもの」に鈍感だ/市川沙央・著『ハンチバック』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。日刊SPA!で書店員による書評コーナーがスタート。ここが人と本との出会いの場になりますように。
世間でもっとも名前の知られている文学賞は直木賞、芥川賞。本屋大賞もそこに入るかもしれない。私の見立てでは、直木賞は「いま面白い小説」が選ばれ、芥川賞は「いま世の中に刺さる小説」が選ばれる印象がある。本屋大賞は「書店員が売りたい(=応援したい)」本を選ぶ賞で、若干趣旨が異なる。
第169回芥川賞に市川沙央『ハンチバック』が選ばれたと聞いたとき、「やっぱそうだよなあ」と思った。それはこの小説から障害を背負った人間の切実さと、健常者のみで構成されることを念頭に作られた社会システムへの強いメッセージ性を感じたからだ。芥川賞の審査員もその熱を受けたからこそ「いいから読んでほしい」という思いを持ったのではないかと思っている。
『ハンチバック』は先天性ミオパチーという筋肉疾患の病気を抱えている井沢釈華(しゃか)という女性が主人公である。背骨が極度に湾曲して右肺を押し潰してしまうことで、彼女は身体を動かすこと、呼吸することに障害がある。
10代のときに発症して以来、40代になった現在に至るまで彼女は電動車いすに乗ってグループホームの中で生活している。親が残した資産によって彼女は生涯ホームで暮らしていける環境にあるが、空いた時間で有名私大の通信課程教育を受け、男性になりきった風俗レポートやティーンズラブ小説などのアダルトコンテンツの文章を執筆して若干の収入を得ている。当然、それは取材などしていない、ネット上の情報の継ぎ接ぎで書いたコタツ記事である。記事を書きながら、彼女はTwitterで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」とつぶやく。
あるとき、担当するヘルパーの中でも彼女にも好意や親近感のない、ひときわ機械的な対応をする30代の男性ヘルパーがボソッと彼女のSNSや文章を読んでいることをほのめかしてくる。彼女は動揺するが、同時にずっと秘めていた「ある願望」を、彼に頼めないか考えるようになる。
小説を読むことは、自分以外の誰かの人生の、つかの間の瞬間を見ることだ。著書の市川沙央自身も身体障害者であり、ミオパチーの主人公が周囲や社会に向ける言葉の数々には体重が乗っており、リアリティがある。同じ姿勢を長時間保ち、不自由な手と道具を使って本を読む行為を「紙の本を1冊読むごとに背骨が潰れていく気がする」と表現する主人公が、「紙の本が一番」信仰の強い出版界に向かって「健常者優位主義(マチズモ)」と呪うくだりは生々しかった。
私たちは「他者が持っているもの」には敏感だが、「自分が持っているもの」には鈍感である。「あなたが普段何の気なしにやっていることを、やりたくてもできない人間がいることを知ってほしい」と言われているような感覚があって、読後しばらく余韻が冷めなかった。自分が今いるすぐ隣に、電動車いすに乗った釈華がいて、こちらをジッと直視している気がした。
評者/伊野尾宏之
1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり
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