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今年で没後90年!宮沢賢治に魅せられた漫画家・ますむらひろしが『銀河鉄道の夜』のビジュアル化にこだわるわけ

 今年で没後90年を迎え、今なお熱烈なファンが多いことで知られる文豪・宮沢賢治。そんな賢治の世界に魅了され、『銀河鉄道の夜』をはじめとする賢治作品を擬人化した猫でコミカライズすることをライフワークとしているのが、漫画家のますむらひろし氏だ。  今年5月には、およそ40年前に手がけた『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『グスコーブドリの伝記』(ともに扶桑社)の3冊が文庫で復刻された。現在は『銀河鉄道の夜』の3度目の漫画化に挑戦し、最新の研究成果を反映させて作品世界をブラッシュアップし続けている。  なぜ人は宮沢賢治に魅せられるのか。漫画家生活50年の大ベテラン、ますむら氏に話を伺った。

漫画家のますむらひろし氏

上京した18歳の青年の胸に響いた宮沢賢治の言葉

――ますむら先生は、故郷の山形県米沢市から上京して東京暮らしに馴染めずにいた1971年、18歳で賢治の作品と出会ったそうですね。きっかけとなった作品と、賢治のどんなところに惹かれたのかを教えてください。 ますむら:当時、僕は鈴木翁二という漫画家の作品が好きだったんだけど、その人の描く作品世界が宮沢賢治の世界観に似てると聞いて、『注文の多い料理店』の文庫本を買ってきて読んだのが最初。 そしたらその序文がまあ名文でね。東北地方の生々しい空気が作品の中から立ちのぼってくるんだ。自分が米沢から上京してきた懐かしさもあって、すごく感動した。それから、夜な夜な賢治の作品を少しずつ読み進めるようになったんです。 ――宮沢賢治といえば、小学生の頃に教科書で『雨ニモマケズ』などを読んで出会うことが多いと思いますが、琴線に触れたのはだいぶ後になってからだったんですね。 ますむら:学校の教科書やカリキュラムとして読まされるときとは、ニュアンスが違うんですね。自分の好きな漫画家と似ていると聞かなかったら読んでいなかっただろうし、自分が20歳近くなって、やっと賢治の書く言葉の意味が理解できる年齢になったというタイミングもあったと思う。 ――ますむら先生は、最初から漫画家を目指していたわけではなかったそうですが。 ますむら:その頃、僕はデザイナー学校に通っていたんだけど、それまで漫画なんて全然描いたことがなかったんだ。でも、卒業後の進路も何も決まっていなかったし、ふと見つけた手塚治虫漫画賞の賞金が欲しくて、なんか描いてみようと思ったのが漫画を描き始めたきっかけ。 漠然とイラストレーターやデザイナーには憧れていたけど、当時はみんななりたがってる職業だったから、自分には無理だと思っていた。その点、漫画は一本描いてみたらすぐ準入選とかになったから、なんとかやれるもんだと勘違いしちゃったんだな。そこから生活していけるようになるまでが大変だったんだけど。

自分のルーツを描くことがオリジナリティになる

1973年にデビューし、漫画家生活は50年に及ぶ

――そもそも、1973年のデビュー作『霧にむせぶ夜』は、賢治の『猫の事務所』という童話が着想のきっかけのひとつだったとか。のちに賢治作品を擬人化した猫で描くルーツとも言えそうですね。 ますむら:もともとは、NHKで水俣病の特集を放送していたとき、水銀入りの魚を食わせて水俣病を発病した猫が、痛みで跳ね回っている実験の映像を見て「猫にならこんなことをしていいのか」と人間に対してすごく腹が立った。 その怒りと、『猫の事務所』に出てくる(職場で他の猫たちにいじめられる)かま猫の悲しみが自分の中でクロスしたんです。それで、猫が集まって人間を皆滅ぼしてしまおうとするという設定が浮かんだんですね。 ――その後、米沢市をモチーフにした“ヨネザアド大陸のアタゴオル”という架空の土地を舞台にした「アタゴオルシリーズ」は、ますむら先生の代表作になりました。そこにも賢治の影響が? ますむら:漫画家としての自分のオリジナリティは何だろうと考える中で、18歳まで米沢で生まれ育ったという経験こそが武器になる、と教えてくれたのが賢治でした。 普通は、面白い漫画を描こうとか、読者の喜ぶものを描こうとするところを、僕はずっと「自分とは何者なのか?」「自分は何を感じてきたのか?」というルーツを描くことにしか興味がなかった。それは、賢治が自分のオリジナリティとして東北にこだわり続けたことに、確実に影響を受けています。
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無茶から始まった賢治作品の漫画化
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銀河鉄道の夜——ますむらひろし賢治シリーズ①

宮沢賢治不朽の名作を
完全ビジュアル化

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