第5章:竜太、ふたたび(22)

「ツラにはツラ返し」

 竜太はつぶやきながら、手を止めた。

 Pの4目(もく)ツラが切れたのだから、Bに落ちるのか。

 本当に「ツラ返し」となればそうなのだろうが、そんなこと、わかりゃせん。

 アルコールで痺れた竜太でも、まだ「ツラ返し」に大きくは行けなかった。

 階下の一般フロアでは3000ドルを負けている。しかしVIPフロアのバカラ卓では、4勝1敗で900ドルを勝っていた。

 変わらず300ドルのミニマム・ベットでバンカー側にそっと置く。

 みゆきもモンキー(=500ドル・チップのこと)のベットでついてきた。

「俺が、絞る」

「うん、お願い」

 前手を自らの絞りで滑ったみゆきが、素直にドライヴァーの権利を竜太に譲った。

「こりゃ、始めろ」

 と、竜太はディーラーに日本語で命じた。

 ここいらへんは、スワヒリ語だって通じるはずだ。

 世界共通で、やることに違いはないのだから。

 このクーは、プレイヤー・バンカー両者の3枚引き勝負となった。

「ガッタオッ!」

 しかし、竜太は最後のカードでタテ(=2か3のカードのこと)を起こして、バンカー側の会心の勝利。

「あぶね、あぶね」

 薄氷を踏むがごとき勝ちゆえに、嬉しさもひとしおだった。

 このクーでの勝利ののちに、竜太もみゆきに倣い、モンキー・ベットにギアを一段上げたのだが、そこからケーセン(=罫線。勝ち目が描く画)が乱れ始めた。

 ひっつくと思えば飛び、飛ぶと思えば下に落ちる。

 いや、「ケーセンが乱れた」という捉え方が、間違っているのだろう。

 そもそもケーセンでは、把握できるパターンが出現する方が「尋常ならざること」なのだから。

 何度でも繰り返すが、ケーセンは過去の勝ち目の記録である。いかなる意味でも、未来の勝ち目を示すものではなかった。

 それでもバカラの打ち手は、ケーセンにすがりつく。

 なぜか?

 これ以上ない簡単な理由に拠っていた。

 アホみたいな話で恐縮だ。

 だって、ケーセン以外にすがれるものがないのだから(笑)。

「ケーセンが乱れ」てから、竜太は、取ったり取られたり。

 こうなるとすこしずつだが確実に、チップの山は削られていった。

 みゆきは「見」が多かったので、被害は竜太ほどではない。

 竜太の席前にあった500ドル・チップのスタック(=20枚でひと山)が、一本以上やられていた。

 我慢がきかない。

「こ、こ、このやろ」

 バンカーを示す白枠内に、竜太はゴリラ(=1000ドル・チップのこと)10枚を、どかんと叩き付けた。

 1万AUDといえば、90万円である。

「ちょっとおう、それ、危険じゃない?」

 とみゆきが悲鳴を挙げる。

「危険のないギャンブルなんて、あるわけない」

 と竜太。

「そういうことじゃなくて、行動経済学には『不確実性下における意思決定モデル』というのがあるの」

「はあ~っ?」

「『プロスペクト理論』っていうのだけれど」

 わけのわからんことを、みゆきが言った。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(23)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。