第5章:竜太、ふたたび(27)

 オール・インの勝負だった。

 日本の非合法のカジノでは、これを「テッカ」と呼ぶ。

 多分「鉄火」という漢字を当てるのだろう。

 総額2万8000ドル分の「テッカ」だった。

「これが、『プロスペクト理論』が示す状況なのよね。負けているから取り戻そうとして、ドカンと行く」

 横に坐るみゆきが、つぶやいた。

 みゆきのこのつぶやきで、竜太の頭の中で煮えたぎっていた血液が、一瞬冷えた。

 自分がやっているのは、まさに「トビの高張り」の古典的ケースである、と竜太も認めざるを得ない。

 自分は、「トビの高張り」を喰う側の人間であって、それで喰われる側の人間ではなかったはずだ。

 血液が、頭から胸以下に下がってくる。

 もしそんなものがあると大胆な仮定をするなら、「新宿歌舞伎町のロクデナシばくち打ちの矜持 (きょうじ)」なるものが、竜太に戻ってきた。

 バンカーを示す白枠内に一度叩きつけたチップを、あわてて席前に回収する。

 もう、恥も外聞もなかった。

 重要なのは、勝負卓上に載るカネだけなのである。

 それ以外の「博奕場の真実」は、ロクデナシばくち打ちには存在しない。

 そう、ここはじっと我慢をする局面だった。

 打たれて打たれる。打たれつづけて、打たれ越す。

 打たれるのに「テッカ」はない。

 ミニマム・ベットで充分だった。

 竜太は300ドルのベットに戻した。

「そうよね、それが竜太くん。応援してあげるから」

 みゆきがモンキー・チップ(=500ドル)のバンカー・ベットでフォローする。

「ゴー・アヘッド」

 みゆきがディーラーに命じて、カードが配られた。

「俺はいらんよ」

 フェイス・ダウン(=裏になった状態)のカード二枚はみゆきに流せ、と竜太がディーラーに掌で合図する。

 1万ドルのベットで叩かれた直後に、300ドル・ベットのカードを絞る気は起こらないはずだった。

「わたしが?」

 とみゆき。

「でも、やる」

 みゆきも「バカラの絞り」の魔力に嵌まりだしたのか。

 地獄行きの高速道路に乗った。

 あまり力を込めてカードを絞っているようには見えなかったが、

「あれ、ナチュラル・ナインじゃない」

 とみゆき。

 エースとサンピンという「最強太郎」の組み合わせで、みゆきはサンピンのカードに中央に点をひっつけ、負けはなくなった。

 ディーラーが起こすプレイヤー側のカードは、9以外ならなんでもよろしい。

 楽勝だった。

 クー(=手)に勝利したにもかかわらず、竜太の心はさらに落ち込む。

 そりゃそうだ。

 1万ドルを失って、285ドルを得た。(バンカー側の勝利には、5%が差し引かれた勝ち金がつけられる。これが「バンカー・コミッション」、つまりハウスの「かすり」である)

 バカバカしくて、話にならん。

 しかも、みゆきのつぶやきで改悛する前には、竜太は2万8000ドルの「鉄火」を仕掛けようとしていたのではなかったか。

 もういけない。

 これ以上やっても、傷口を広げるだけなのだろう。

「もう、寝る」

 竜太は言うと、席を立った。

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。