第5章:竜太、ふたたび(29)

 みゆきの席前のグリーンの羅紗 (ラシャ)の上には、ピンク色のモンキー・チップのスタック(=20枚ひと山)が4本積まれてあった。

 いや、それのみならず、ゴリラ(=1000ドル・チップ)十数頭やバナナ(=5000ドル・チップ)2本まで置いてあるではないか。

「やられてしまって、モンキーが最後の一枚。『さよならバンカー』のベットしたの。部屋に帰るつもりだった。ところがそれを取ってから、なんか状態が一変してしまった」

 500ドル・チップ1枚から、8万ドルを超す勝利?

 そ、そ、そんなバカな。

「『さよならバンカー』以降、バンカー側が破竹の12連勝。一度プレイヤーが出て、ツラは切れた。それからしばらく行って来いの展開になったのだけれど、いったん壁を乗り越えたら、もう、すんごいの。ケーセン(罫線。=勝ちの目の記録)はぐちゃぐちゃだったのにもかかわらず、なぜかわたしの賭けたサイドが的中してしまう」

 バカラでは、というか、ゲーム賭博全般で、そういうことがごくたまに起こった。

 一種の憑依(ひょうい)現象である。

 しかしなぜ自分は、そういう状態のときのみゆきに同席していなかったのか?

 不貞腐れやけ酒を飲んで、ホテルの部屋でひっくり返っていたからだった。

「わたしが勝つサイドを選んだ、というのじゃなかった。プレイヤーでもバンカーでも、わたしがいい加減にベットしたサイドが勝ってしまう」

 とみゆきがつづけた。

 いいさらせ。

 本来なら連れの大勝を祝福すべきところなのだろうが、どういうわけか竜太の心の闇の中で、憤怒と憎悪の泡が別府の坊主地獄のようにぼこぼこと沸いてきた。

「途中からこのテーブルに入って来た中国系の大口の打ち手も、わたしに丸乗りしてくれた。そしたら2時間もしないうちに100万AUD(=9000万円)勝って、その人はさっさと帰ってしまったのよ。『ありがとう、お嬢さん』と言って、1万ドルのチップをわたしに残して」

 そう告げるみゆきの口端から、ひと筋の涎(よだれ)が垂れ落ちた。

 それをみゆきは、掌で拭おうともしない。

 気づかないのだろう。

 ならばみゆきは、まだ憑依を引きずっていた。

 地上に舞い降りていない。

 これは乗りごろである。

 ディーラーからみゆきの前にプレイヤー側2枚のカードが流され、みゆきがそれを絞った。

 じつはみゆきのは、絞るという動作より、カードの左上隅(こちら側には、数字が現れる)をちょこっと折る、といった所作だった。

「ハウス、オープン」

 ディーラーがひっくり返したバンカー側のカードは、5と6で1の持ち点。

 一方、みゆきが掌の下には、セイピンの9が2枚。

 プレイヤー側の楽勝だった。

「プレイヤー、ウインズ。ナチュラル・エイト、オーヴァー、ワン」

 ディーラーがクー(=手)の結果を読み上げた。

「これでまた25万円弱。カジノって、ほんとうに信じられない世界ね」

 とみゆき。

 竜太の憤怒と憎悪の泡は、ここで爆発した。

 もう坊主地獄ではなかった。龍巻地獄となって空中高く噴き上がる。

 憑依がまだつづいているようなら、いまからでも遅くない。

 全力でみゆきに丸乗りじゃ。

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。