第5章:竜太、ふたたび(30)

「一万ドルだけ貸してくれ」

 竜太はみさきに依頼した。

 上着の内ポケットには、まだ400枚前後の100ドル紙幣が残っている。

 だから、卓上でそのままキャッシュをチップと交換してもいいようなものなのだが、竜太は「博奕(ばくち)のリズム」が壊れることを嫌ったのである。

 これがよくあるのだ。

 おっ、ツラが出ている。

 と、通りがかりの打ち手が新たに現れて、現金をテーブルに投げる。

 勝負卓上での高額な現金→チップへの交換には、大手ハウスではそれなりの面倒な手続きを踏まなければならない。

 ディーラーが、受け取った札束のうちまず20枚の100ドル紙幣を卓上に広げる。これはどこの大手ハウスでも、20枚、つまりオーストラリアなら2000ドルが1単位となっている。

 その2000ドルをインスペクターが確認し(そして多分天井のカメラを通してサヴェイランス・セクションの職員にも確認され)、次の20枚の100ドル紙幣が卓上に並べられる。

 1万ドルの現金をチップと交換するとなると、卓上で20枚の100ドル紙幣を広げる作業が、5回繰り返されなければならない。

 その手続きが終了すると、やっと1万ドル分のチップがフロート(ディーラーの前にある仕切りつきのチップ・ボックス)から取り出され、これがまたインスペクター(とカメラを通したサヴェイランス)によって確認されてから、はじめて打ち手の席前にチップが押し出されるのである。

 この作業には結構時間がかかる。

 その間、ツラで異様に盛り上がっていた場は冷え込む。

 するとなぜか、次手でツラが切れる。

 まったく科学的ではないのだが、勝負卓でこれがよく起こってしまう。打ち慣れた者なら誰でも経験があることだろう。

 竜太はそれを避けた。

「キャッシュ、もっているよね?」

 とみゆき。

 しっかりしている。

 前日、負けこんでVIPフロアを去った竜太が、帰りがけにヒラ場で残ったカネをすべて溶かしてしまったとでも考えたのか。

 みゆきの席前に積まれた8万ドル前後のチップのタネ銭は、もとはといえば竜太が真希からかっぱらってきたものだった。

 でもいったん手を離れたカネは、他人のカネとなる。

 たとえそれがどんな由来をもっていようとも。

「ああ、ある」

 と竜太。

「じゃ、勝負が終わったら、すぐにその場で返してね」

「わかっとるがな」

 みゆきはゴリラ(=5000ドル・チップのこと)2頭を、竜太に手渡そうとした。

「いや、みゆきが張るサイドに上乗せしてくれ」

 竜太は、自分でチップに触りたくなかった。

 自分がチップに触れれば、なにか悪いことが起きてしまう。

 これも、科学的ではない。

 しかし博奕場では、あまり科学的じゃないことがよく起こるのである。

 ただし、非科学的なことは決して起こらない。

「じゃ」

 とつぶやいて、みゆきが4頭のゴリラを、バンカーを示す白枠内に置いた。

 ワン・クー(=手)で2万ドル(180万円)の勝負となった。

「ファイナル・ベッツ」 

 ディーラーの声が、息を詰めている二人の緊張を切り裂いた。

 ディーラーのクロスした両腕が、バカラ卓上で左右に振られ、もうあと戻りはできない。

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。