第5章:竜太、ふたたび(33)

「入っても構いませんか?」

 席前に残ったチップを、全部プレイヤー枠に押し出そうとしていたその瞬間、竜太の背中に、声が掛かった。

 それも日本語で。

 ひたいからハゲあがった40代の男である。

「ええ、どうぞどうぞ」

「どうですか?」

「まあまあですね」

 ウソをつく。

 やられています、なんてカジノで言ったらロクなことが起こらない。

 そこいらへんは、アングラといえどもカジノで永い時間を過ごした竜太は心得ていた。

「いいケーセン(=勝ち目の記録)ですね」

 と、竜太の手書きのケーセンをのぞき込みながら男は言った。

 なにを言いやがる。俺はこのケーセンで、ぼこぼこにやられているところなんだ。

 それを口には出さず、竜太は同意したようにうなずいた。

 男は1万AUD・チップを十数枚羅紗(ラシャ)の上に置くと、馴れ馴れしく竜太の隣りに坐った。

 このカジノのバカラ卓に当時、電光掲示板はまだ導入されていなかった。

 したがって、男は竜太の手書きのケーセンを必要としたのだろう。

「カラー・チェンジ」

 5枚の1万ドル・チップをディーラーに向けて投げた。

「オール・ゴリラズ」

 どうやらミニマムでも1000ドル・チップでベットする打ち手のようだ。竜太はオール・インを一時とり止めて、しばらく男の打つ博奕(ばくち)を見学することにした。

 いつだって、打ち止めて部屋に戻れる。

 じつはこれも言い訳だ。

 勝っていれば、夢を見て席を立てない。負けていれば負けていたで、取り戻そうとして打ちつづける。

 勝っていても負けていても打ち止められないのが、博奕だった。

 男はプレイヤー・サイドに3000ドル(27万円)のベット。

 これをあっさりと勝ち、次手はダブル・アップで6000ドルのベット。これも簡単に仕留めた。

「いいケーセンじゃないですか。なんで行かないんですか?」

 と、見(ケン)で手を出さない竜太に、男は訊いた。

 後悔と反省と怒りが混じり合い、竜太のハラワタは煮えくり返っている。

「しばらくお休みです」

 と竜太。

「じゃ、失礼して」

 またダブル・アップかと思ったら、男は1000ドル・チップをすべて引き揚げ、手元にあった1万ドル・チップ2枚を、プレイヤー・サイドに置いた。

 2万AUD・180万円相当のベットなのに、男に気負っている素振りはない。高額ベットに慣れているのか。

 配られた2枚のカードを、男は時間をかけてしぼっていた。

 ふっ、と鼻から息を抜くと、

「はい、バンカー側開いて」

 と静かにディーラーに命じる。

 気迫が籠もっていない声だった。プレイヤー側のカードは、悪い組み合わせなのだろうか。

 ディーラーが事務的にフェイス・アップにしたバンカー側のカードは、モーピンの3にリャンピンの5がひっついて、ナチュラル・エイト。

「アイヤアァ」

 と声を漏らしたのは、男ではなく竜太だった。

 大きく行くと、外す。なんでなんだろう?

「はい、ご苦労さん」

 男がディーラーに戻したプレイヤー側のカードは、エースにサンピンの8がひっついていた。

「アイヤアァ」

 と再び竜太。今度のほうが、声が大きい。

 敵の8をナチュラル・ナインで叩いている。

 俗に「パッツ・シュー・ガオ」と呼ばれる、もっとも気持ちのいい勝ち方だった。

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。