第5章:竜太、ふたたび(35)

「じゃ、わたしはこれで」

 男が言って、1万ドルと1000ドル・チップの山を、ディーラー側に押し出した。

「もう行かんのですか?」

 と竜太。腹の方はすっきりしたが、心が晴れない。

「お腹いっぱいです。欲を掻くと、ロクなことがない。それに経験的には、長ヅラのあとには、目が乱れることが多い。あなたが居ない間の勝ち目は、ケーセンに書き込んでおきましたから。いやああ~、美味しかったな。ありがとう」

 男が去った。

 広いVIPフロアに、また竜太が一人だけ、ぽつんと坐っている。

 てやんでえ、そんなプレッシャーに負けるような、新宿歌舞伎町のドブネズミばくち打ちじゃねえんだよ。

 フロアのスタッフ16人ほどに見詰められながら、竜太は孤独にバカラの札を引いた。

 どういうわけか、成績がいい。

 溜めていたクソが悪かったのだ。それさえ流してしまえば、これが自分の実力なのである。どんなもんじゃい、こりゃ。

 竜太は、心の中で息巻く。

 300ドルまでのベットは落とすことも多かったのだが、ゴリラ(=1000ドル・チップ)でのベットは、びしびしと決まった。

 そのはずなのである。それが新宿歌舞伎町のアングラ・カジノで生き凌いできた博奕打ちの確率論だった。

 なぜならそれまでは、小さなベットを取り、大きなベットは落とす、というまるで逆の展開だったのだから。

 黒いプラスティックのカードが出て、シューが終わり、そして新しいシューが開始された。

 ニュー・カードとなったのに、流れは変わらない。

 ゴリラ2~3枚のベットは、よく的中した。

 いつの間にか、竜太の席前のグリーンの羅紗(ラシャ)の上には、ゴリラのスッタクが2本築かれていた。あとはモンキー(=500ドル・チップ)とタイガー(=100ドル・チップ)が二十数枚ずつ。

 5万ドル以上戻している。しかし竜太は、その過程をほとんど記憶していなかった。

 自己がばらばらに崩壊する。

 勝負卓に張られたグリーンの羅紗に、意識が溶け込んだ。

 ソーセージ状となった肉塊が、勝手に動いて、勝ち目を当てる。

 いや、勝ち目を当てているのではなくて、この朝みゆきが言っていたように、竜太がゴリラ・チップを置いたサイドが、勝利するのである。

 バカラでは、これが起こった。

 だから、怖い。

 新しいシューの中盤で、竜太の席前に積み上げられたゴリラ・チップのスタックは、4本となった。

 こりゃハウス、矢でも鉄砲でも持ってきやがれ。はっはっは。

 もうすぐ「煉瓦(レンガ)」達成だった。

 煉瓦というのは、1000万円を意味する日本の賭場(どば)用語である。

 実際の煉瓦よりは小さいのだが、1万円札が1000枚で似たような大きさになるから、そう呼ばれていた。ちなみに、1億円は、関東なら「座蒲団(ざぶとん)」となる。

 座蒲団だって、夢じゃない。

 バカラ卓では、なんでも起こるのである。

 もう竜太の脳内は、快楽物質で洪水状態だった。

 ゴリラ・ベットで勝利のたびに、ドーパミンがぴゅっぴゅっと飛び出す。

 でも座蒲団到達のためには、ゴリラ・ベットでは、ちい~っと張りが細すぎるのではなかろうか?

 竜太の頭の中を、怪しい誘惑が駆け抜けた。

⇒続きはこちら 第5章:竜太、ふたたび(36)

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。